怪物テレビマンとの3.5時間 - 吉川圭三
※この記事は2015年05月15日にBLOGOSで公開されたものです
「怪物テレビマンとの3.5時間」 メディア創世記には様々な怪人・傑人・革命家が現れる。IT業界で私が面識あるのは、堀江貴文氏、ドワンゴ・川上量生氏・横澤大輔氏、等・・・彼らの話を聞いていると極めて新鮮であり既成概念を突破する独自の見解があり、徒弟制度や学校や書物では勉強できないオリジナリティ溢れた迫力・突破力がある。
アメリカの映画大学では映画創世記から現代までの名作の数々を鑑賞。シナリオ分析・映像分析・演出分析を今でも徹底的に教えられる。まさに映画メディア創設期の血と汗の涙の努力の蓄積と創造の秘密を徹底的に叩き込まれるのだ。ルイス・ブニュエル、アルフレッド・ヒッチコック、オーソン・ウェルズ、黒澤明、ジョン・フォードから新しいクリストファー・ノーランやデビッド・フィンチャー等まで徹底的に研究させる。メディアにおいて「新しいことを生み出す」のは至難の業で「その発明品で成功を得る」ことはもっと難しい。その「創造の秘密」を探るのがこれらの授業の目的である。欧米礼賛というわけでないが、彼らは「過去の偉大な創造物・クリエーター」をリスペクトし、過去から「未来へのヒント」を得ようとしているのだ。
もちろん日本のテレビにも「創世記」があった。今から60年前後に次々開局したテレビ局は最初「電気紙芝居」と卑下され、日本映画の圧倒的な力を前に創世記には相当苦労していた。その後テレビは日本映画をある意味、娯楽産業として駆逐し現在、巨大メディアとなった。
ただし、ビデオテープも高価で開局当時ほとんど生放送であったテレビには怖ろしいほど記録がない。あるいはテレビの歴史を作ってきた「偉人・革命家」たちの書籍も驚く程ないし、記録も博物館もない。ある種テレビは「オンエアー」という言葉があるくらいで空気の中に、放送して流してしまうものだから記録や繰り返し視聴に向いていないし、それは仕方がないかも知れない。
しかし、テレビにも「開拓者・革命家」がいる。ある種、彼らはテレビ局に勤めるサラリーマンでもある。今でもホンダ技研工業の創業者の本田宗一郎、やソニー創業者の井深大、スティーブ・ジョブズの本はビジネス本として売れ続けている。しかし偉大なるテレビマンの本が無いのはずっと不思議だと思っていた。それはテレビというものにまつわるある種の「軽薄さ」「低次元の娯楽」というイメージのせいなのか?
・・・わたしは今度、テレビにまつわるビジネスの本を書く予定である。自分が取り組んできた番組の秘密はともかく、私はテレビの未来を切り開いてきた何人かの「偉大なるテレビマン」について記録しておこうと思った。60年前新興メディアであったテレビの熱さと彼らの血のにじむ努力と才能を後世に伝える為である。
この文章では先日インタビューした一人の「怪物テレビマン」について書く。
ある日の13時。汐留日本テレビタワー30階の広大な応接にお招きした。
「細野邦彦」・・・彼について書かれた書籍・刊行物はこれまで一冊も発行されていない。小説家・コラムニストの小林信彦氏が細野氏の個性に感服し小説「オヨヨ大統領シリーズ」で「ジャパンテレビ辣腕プロデューサー」細井忠邦として細野をモデルとして登場させている。
先日食事したある日本テレビの元経営陣の方の話である。その方はテレビ史にも詳しい慧眼な方であるのでその判断は間違いないと思う。曰く
「日本のテレビ創世記。テレビ局は、映画関係者・舞台・演劇関係者・音楽(バンド)関係者、果てはストリップ小屋の照明屋さんまで訳も分からず手当たり次第に雇い入れた。それまでテレビが無かったからテレビ屋が全くいなかった訳だから言葉は悪いが有象無象色んな人種を入社させた。だから混沌として、『テレビで映画を突き詰める人』や『テレビで演劇をやる人』や『能・日本舞踊をやる人』までいた。しかし、あれはテレビじゃなかった。・・・そういう意味でテレビの本質を知り尽くしてテレビでしかできない表現を作ったのは、4人の男だ。それは歴史的に言っても日テレの井原高忠さん、日テレの後藤達彦さん、TBSの大山勝美さん、そして日テレの細野邦彦さんの4人だ。」
井原さんは伝説の番組「光子の窓」「ゲバゲバ90分」「11PM」を作った洒落た音楽番組やバラエティで歴史を変えた努力家にして天才肌の方だった。後藤さんはプロ野球中継の方法に革命的変化を与えた。大山さんは今でも語り継がれる「岸辺のアルバム」「想い出づくり」「ふぞろいの林檎」で「ドラマのTBS」の名をほしいままにした方。・・・そして今回わたしがお呼びしたのが細野邦彦さんである。
痩せぎすの細野さんは1937年生まれだから78才。現在MXテレビ顧問。隠れた人気番組「五時に夢中」の初期の重要なアドバイザーだった。洒落たスーツとシャツ、ピッカピッカのフェラガモの靴を履きながらダンヒルの靴下を引っ張り上げながら(これは細野さんの癖)、エネルギッシュに聞いたこともないレアーな話をどんどん繰り出す。
途中、当日「細野さんが来社してます。」と連絡したら、日テレの上層部が二人部屋にやってくる。彼らの細野さんに対する尊敬は有無を言わせず絶対的である。「裏番組をぶっ飛ばせ・野球拳」「ウィークエンダー」をはじめ細野さんはPTA激怒必至の公序良俗に反する視聴率のガッポリ取れる番組を作っていた。しかしテレビと出演者の本質を掴む能力は業界でピカ一であった。亡くなった氏家 齊一郎元日本テレビ会長も一目置いていた。
直立不動で立つ上層部に対してソファに寄り掛かった細野さんは語りかける。
「お前ら。ずいぶん仕事したよな。俺は見てたよー。長い時間、人の嫌がる事を黙々とやってきたなー。お前らみたいなやつが偉くなって嬉しいなー」
多少のヨイショはあったとしても、細野さんは意外なときに意外な褒め方をする人だった。叱るときには、身も凍る程、厳しかったが、人を褒めるのが極めて上手かった。
そういえばその日細野さんが一人の上層部に言っていたことが印象に残っていた。「社員に教育してくれよ。全てのテレビ屋はジャーナリズムと接していないとテレビがつまらなくなるから。」
あのゲテモノ番組を作っていた細野さんにしては意外だなと思っていると、その後、細野さんは語ってくれた。かつて故・石原裕次郎と番組で意気投合した細野さんは裕次郎さんに兄の石原慎太郎を紹介される。当時はまだ小説家、後に国会議員になった時、突然、石原慎太郎さんから細野さんに電話が入る。
石原「細野さん、ロナルド・レーガンって知ってるか?」
細野「ああ、あのハリウッドの2流の役者でしょ。」
石原「アイツが来日する。テレビに出してほしい。アイツ大統領になるから。」
細野「アイツがなるわけないじゃない。・・・でもまあ石原さんに頼まれたんじゃ。でも朝のワイドショーでちょっとなら。でも短くね。」
レーガンが来日して出た番組はNHKも含め放送局では朝のワイドショー「ルックルックこんにちは」ただ一つだけであったという。細野さんは間もなく第40代アメリカ合衆国大統領に本当にレーガンがなった時に度肝抜かれたという。また細野さんは全く無名の竹村健一やエジプトの大学を卒業した小池百合子をどんどん採用した。(部下の推薦もあったと細野さんは正直に言っている)
細野さんは京都生まれ。父は東京大学工学部船舶工学科卒業後、「親父は突然、戦艦の時代は終わったと思い航空機設計の勉強を始めた」という。しかし思うところあって東大法学部に入り直し弁理士・弁護士・国際特許専門家になる。息子の細野邦彦さんは、少々不良だったが野球をやりたかったので有名な平安高校に入学。しかし野球部員の体格の凄さに圧倒され、断念。不良仲間と街を徘徊していた。今でもヤクザ臭の残る細野さんはそのころの影響か?相当悪かったらしい。
しかし細野さんを変えたのは「音楽」だった。京都を訪れた立教大学のオーケストラに圧倒されたのだ。
不良から転向。立教大学に入学。チェロ・コントラバスに入れ込む。さらにそのころ流行のハワイアンバンドを結成。大学卒のサラリーマンの4倍の収入を得る。後に、毎日新聞社長になる斎藤明氏に「これからはテレビだ。」と言われ、日本テレビ入社。歌謡音楽班に所属した。
以下は私が新入社員研修で実際聞いた細野邦彦氏の訓話である。
若手ディレクターのとき、ある大物を土下座してまで口説き日本テレビの麹町スタジオまで深夜12時に連れてきた。故・森繁久弥さんである。当時テレビの地位はまだ低く映画の大御所をテレビに連れてくるのは至難の業だった。「社長シリーズ」他で大ヒットを放っていた森繁さんはもちろん大御所で交渉は困難を極めたという。台本も完璧。セットも照明も完璧。本人との打ち合わせも完璧だと思ったという。しかし当日スタジオにやって来た森繁さんはこんなことをふと呟く。
「ここに一個のドラム缶とドラムのスティックがあるとする・・・」
完全なその場の思い付きである。細野さんの上司のプロデューサーが厳しい目で細野さんたち若手に「持って来い」と言っている。
結局2キロ離れた新宿通りのガソリンスタンドの親父を真夜中に叩き起こし、強烈な坂道を汗びっしょりになって運んだそうである。
しかし、必死の思いで着いたスタジオで森繁さんは別の話をしている。・・・つまりドラム缶は不要になっていたのだ。細野さんは我々若手社員に言った。
「よほど、意味や価値がない限り、名前だけで大物は呼んでこないと俺はその時、心に誓ったんだ。だったら無名でも見どころのある奴を見極めて使った方が何倍もいいんだ。」
我々若手には実名を挙げての強烈な訓示だった。
その後、音楽感覚に優れていた細野さんは指名でレギュラー番組「美空ひばりショー」の演出・プロデュースをすることになった。美空ひばり・・・戦後の歌謡界を席巻した唯一無二の大物歌手である。そして、美空さんのマネージメントはあの神戸芸能社。山口組三代目・田岡一雄の経営する芸能プロダクションである。かつて芸能人や歌手は地方巡業でかなりの収入を得ていた。その興業を仕切るのがその業界の人々であった。だから映画も含め芸能とその業界の人々とは切っても切れない関係にあった。スケジュール他の打ち合わせのため、細野さんは時々田岡氏に直接、会いに行った。丁重な扱いを受けたそうである。1988年に亡くなった時には自腹で1万円の香典をつつみ、葬式にテレビ関係者としてただ一人だけ参葬儀に参列した。 才能あふれる細野さんは引っ張りだこだった。「11PM」にも引っ張り出された。企画が凄い。「東南アジアのお葬式」。アジアの遺族に石を投げられた。「あなたが死んだらいくらかかる」葬式費用を綿密に計算した。「これがガンだ」名医にその日に手術した肝臓ガンそのものをスタジオに持って来させた。「これがオカマだ」この手の方々をテレビに出したのは細野さんが初めてだった。出演者はオカマ呼ばわりされて激怒した。 仕事を断らない細野さんは営業からある枠を与えられて、悩んだ末、人気落語家・林家三平に声をかける。下町・根岸の三平の自宅に1週間泊まり込み、脂汗が出る程アイデアを絞り出す。生まれたのが「歌って踊って大合戦」。簡単なゲームをやってタレントが歌って踊るだけの番組だが、1回の放送に1週間まるまる練習を朝から晩までやり続けたそうである。細野さんによると「踊りは人格・教養が出る」という。腰をタテに振ると下品に見える。絶対に横に振らないと面白くならないという。 「おのろけ夫婦合戦」でNHKを辞めた高橋圭三をスターにし、また東京進出に自信のない後の人間国宝・桂米朝で「ご両人登場」という芸能人夫婦の企画をヒットさせる。以後、細野さんの企画をパクッた番組が各局で山ほど生まれる。 細野氏は語る「おれは番組が良い時の止めるちゃうんだ。だから『細野ははずしてばかりいる』というイメージがない。だから、また次の依頼が来るんだ。」・・・このひとこと。サラリーマンクリエーターならではの金言だと思う。 音楽番組「グループサウンズベスト10」をヒットさせる。司会は前田武彦。渡辺プロ所属のタイガースを引っ張り出すのに苦労する。別セット・別照明で金がかかる。飽きっぽいひとでもある細野さんが高視聴率であるにも関わらず、また「止めちゃおか。」などと呟いていると、前田武彦がやってきて土下座して「止めるんだったら、フジテレビに持って行ってもいいですか?」と細野さんにすがりついて来たという。前武が嫌いじゃなかった細野さんが許すと、それが当時弱小テレビ局・フジテレビの金看板「夜のヒットスタジオ」になった。細野さんは自分を大きく見せたり虚勢を張ったり、ウソをつくのが大嫌いなので「自分がやった」と「アイツがやった」を正確に記憶しているので、大言壮語しているわけではないと思う。 その後伝説の「裏番組をぶっ飛ばせ・野球拳」を作る。ご存じジャンケンで芸能人が負けると服を脱ぎそれをオークションするというまさに映画にもラジオにも類型も真似も出来ない公序良俗に反するお下劣ショーである。当時、NHKの大河ドラマはお化け番組で視聴率は30%を超えていた。しかもあの人気沸騰していたコント55号のコント番組は下火になりつつあった。細野さんは企画を作る前、ストップウォッチでコント55号のコントの放送を見て、「ここら辺から数字が下がり始める」と独自の感で計測しデータを取ったそうである。結果すでにキャスティングされていた55号で「コントだけはやらないぞ」と誓い、スタッフ・放送作家と四谷の旅館にこもってアイデアを絞り出したそうである。 結果見事大河を抜いた訳だが、これに対しての細野さんの一言が面白い。 「テレビでしかできないことをやろうと思い続けてきたんだよ。しかもこっちはサラリーマンだから、好きなものやってればいいなんて言っていられなかったから。会社がつぶれて事務のおネエちゃんが露頭に迷ったらどうするんだ。だから、人間の本能にぶつければ絶対に番組は当てられると思ったね。」 エロ・グロ・ゲス・罪・欲望・覗きたいもの・・・細野さんは「人間という厄介な存在が理屈ではなく、どうしても見たくなってしまうもの」にこだわりつづけた。 一方細野さんはアメリカのジャズやラテン音楽に評論家顔負けの知識を持つ方でもあった。また洗練されたビリー・ワイルダーを研究し尽くした日本テレビの演出家・福田陽一郎の「男嫌い」を絶賛しその才能を認めていたが、「あいつは20年に1本しか当てられねえからな」と語る。 また細野さんの作らせるセットはお洒落であか抜けていてデザイン感覚は繊細だった。その日の天気によって生番組の照明を変えていたとも語っていた。 「俺は『ストリップを歌舞伎座』で、『赤札堂(安売り百貨店)を和光(高級百貨店)で』見せていた様なものだから」と細野さんは語る。 そしてグロの極み「ウィークエンダー」を制作。オンエアーまでに起きた凶悪かつ凄惨な事件を芸人が現地で見て来てリポート。15分の事件再現VTRも日本初だ。この担当ディレクターの話を聞いたことがある。事件が報道される。その日に芸人と現地に飛ぶ。1万円の香典を持って泣き沈む葬式に入り込み。ご遺族に日本テレビと名乗り取材の許可を得る。 スタッフは語る「あれをやるとどんなつらい仕事でもやれるようになる。」 細野さんの番組はある種、露悪的・人間のはらわたを引きずり出すような禁断の部分をお茶の間という空間にテレビを通して送り出す。それに対して非難する人もいるが、「それも綺麗ごとでない人間の一部だよ」と細野さんの番組は語っているような気がする。 司会は漫画家の加藤芳郎さん。人の良さそうなこの人の顔を見るとホッとする。 「過酷な事件の合間にはあの人の善の塊のような存在が絶対必要だった。」 だから、経済的にも困窮していた加藤さんがガンになったときも、上層部を説得して、最高の治療を受けさせて、ギリギリ生本番にも来てもらったという。 「あの番組にはあのひとが一番大事だった。」と回顧する。 また当時全く無名の浅草・女漫談家・泉ピン子も起用したが。 「泉ピン子は本番中笑いを取ろうとしたからクビにした。この番組は笑いはいらない。」 インタビューの最後に聞いてみた。 「細野さん。今のテレビに無いものは何ですか? 細野さんはすぐさま答えた。
「『芸』だね。演じる側も作る側も。大阪に藤山寛美って喜劇役者がいただろ。 アホな丁稚ボンで有名な。もちろん芸でアホを演じていたんだが、芸だから笑うんだ。利口がアホを演じてるから腹から笑える。観客はそんな馬鹿じゃない。今のテレビは本物のアホを出してる。それじゃ持たないんだ。2・3回でハイ終わり。作る方も芸も知恵もないね。」 「ユダヤ人は空気を金に換えたと言われているが、オレの場合はポン引きみたいに番組に連れてきて最後まで見せちゃう・・・まあ詐欺みたいなもんだけど。・・・そしてテレビはタダだから難しい。そこを認識するとしないとでは大違い。映画は金払っているから、理解しようとある程度、懸命に見てくれるんだ。視聴環境を考えろ。・・・ああそれから、吉川君と言ったなキミ。言っとくけどインターットとテレビとは全く違うから。覚えてくように。」
細野邦彦との3時間半はこうして幕を閉じた。「ずいぶん日本テレビも立派にな ったな~」と言いながら汐留の社屋を一瞥し、細野さんは帰って行った。金言 満載の今回のインタビュ―。一応文章に起したがまだ書ききれない話が山ほど ある。私だけがこの示唆に満ちた贅沢な時間を独占して良いものだったの か・・・と細野さんの後ろ姿を見ながら思った。 (了)