ニコニコ動画とディズニー - 吉川圭三
※この記事は2015年04月27日にBLOGOSで公開されたものです
昨日、「ニコニコ超会議」が幕張メッセで行われ4月25日・26日で、入場者15万人、ネット入場者800万人という大変な数字をあげた。「ネット上にあるほぼすべてを再現する」という理念のもと、ニコ動の画面でしか見れない人が目の前に出てきて歌ったり踊ったり、大相撲を持ち込んだり、自衛隊のミサイルランチャーとゆるキャラとアイドルが並んだり、怖いお化け屋敷があったり、巨大パトレイバーがあったり、ピカソ展があったり、とおよそミスマッチな展示が山の様にある。お客さんもコスプレしたり、漫画に出てくる軍服を着て完全武装したり、見事な自作ロボットスーツを着たり、アニメの世界がユーザーに乗り移ったかのように会場を闊歩している。そして皆、何かから解放されたかのような楽しい表情をしている。オタクらしき若者ばかりでなく、普通の人も沢山いる。わたしのある知人が以前こんなことを言った。
「超会議ってどうなのよ?」つまり彼は「超会議はサブカルチャーに値しない」と伝えて来たのだ。しかし昨日の会場を見ると私は「サブカルチャーの王道って一体なんなのか?」と思ってしまう。サブカルとは小説のことなのか?音楽のことなのか?映画のことなのか?・・・しかし昨日の楽しそうな来場者達を見るとそんな堅苦しいことは言えなくなってしまうのだ。
2次元のインターネットを3次元化するという発想。これは思いついたとしても「実行」に移すのは至難の業である。これを「現実化」するのに過去の類型が全くないからだ。2012年に初めて「超会議」を決行した時には相当勇気がいったであろう。でも「見えないからこそやってみよう。」というのは、実は新しいエンターテイメントを創造するときに最も大事な精神だ。反対するものに阻止されるときもあるが、独断専行で「現実化」出来ることがある。吉とでるか凶とでるかやってみないとわからないが、「超会議」の場合、川上量生会長と横澤大輔CCOとそのメインスタッフはその成功に「確信的」であったのか、「計算ずく」であったのか否か、今度機会があったら聞いてみたい。私はかなり計算していたと推測しているのだが。
ウォルト・ディズニーという人がいる、ご存じ映画「白雪姫」「ファンタジア」等を作ったアニメーターであり、自らのスタジオをハリウッドに持つ大物映画製作者であったが、ある日突然、彼は思い付き、1950年代にカリフォルニア・アナハイムの広大な土地を購入しディズニーランド建設に入る。まさに「二次元映像の三次元化」である。彼と兄のロイ・ディズニーは苦心の末ある決断をする。巨額の購入・建設資金を得る為、まだ「新興メディア」としてやや映画人に卑下さえされていたテレビジョンに「ディズニーランド」という週一のレギュラー番組を作ることにしたのだ。過去の短編アニメを放送すると同時に、野生ものの見事な動物ドキュメンタリーや紀行ものを流しABCネットワークのヒット番組にしてしまう。「未来の国」「おとぎの国」「冒険の国」「開拓の国」の各ジャンルが毎回冒頭ティンカー・ベルが決めるというわくわくする番組だった。
浦安のディズニーランドは世界的にもクオリティーが高く、行った方なら十分お分かりだろうが、三次元全てディズニーの世界だから、360度、我々の五感も脳も全てディズニーの世界に包まれてしまう。サービス精神が「お掃除」のお兄さん・お姉さんにも行き届き、物資運搬用の巨大地下道まであるというのだから、その徹底ぶりに驚く。ただ、1955年に作られた乗り物(アトラクション)に現在2015年の我々が長蛇の列で並んで乗り込むのを待っている様子をウォルト・ディズニーは想像していたのであろうか?こんな前代未聞な事を誰もやった人がいなかった訳だから、これは「先行者利益」とでも呼ぶのだろうか?
ディズニーランドは「この世で最も幸福な場所」と呼ばれる。ただそれ故にちょっと「残念なこと」が起こることがある。ディズニーランドのある浦安から電車で東京に帰って来る途中にディズニーマジックが消えてしまうからだ。夢はいずれ覚めるものと言いながら、少々寂しい気持ちになることもある。家に帰ってテレビで他国の災害の映像を見ながらそう思うこともある。それを避ける為に年間パスポートなどを買って頻繁に通うという手もあるが、それにも限界がある。完璧な世界であるが故の現象なのだろうか?
そんな「ディズニーランド」と「ニコニコ超会議」を比較すると、ちょっと面白いことがわかる。超会議はランドのような常設でない。いわゆるニコニコ動画ユーザーのための「祭り」であり「イベント」である。超会議の場合、普段二次元のニコ動で接していることの三次元体験である。またその体験は家に帰っても、家や手持ちのスマホのニコ動である程度、追体験できる。しかも超会議はディズニーランドの様な完璧にコントロールされた世界ではない。ディズニーランドでは作り手の思惑どおりにお客さんはエモーションを動かされる。例えば「ジャングル・クルーズ」でも乗員は「どう楽しんだらよいか」を完全にコントロールされている。一方、超会議では各自それぞれバラバラに自分の熱中することに好き勝手にカオス的状況の中でのめり込んでいる。そしてある程度の「至福感」はモバイルやパソコンで二次元の世界で持ち帰れるし、継続することもできる。またネット時代であるから超会議をきっかけにしたユーザー同志の色んな交流もあるだろう。超会議はあくまでネットという画面の向こうの世界を前提にした年に一度の「リアルな祭り」である。普段ニコ動のユーザーはお互いに二次元のネット上で盛り上がっていても、お互いの人間としてのリアルな姿形や画像に映っている人やモノを直接見ることはできない。それを「可視化」する試みが超会議であったわけだ。(そしておそらく「世界」にその類型はないと思う。)
人間の日常は必ずしも「楽しいこと」ばかりではない。「親に怒られたり」「友人にいじめを受けたり」「職場で上司の理由のない叱責をうけたり」また「面白くもない勉強をしたり」「のめり込めない仕事をしたり」「いくら頑張っても自分が認めてもらえなかったり」「美男美女でも頭がいいわけでもなかったり」また「突然、恋人や友人や肉親と別れることになったり。」・・・エンターテイメントはしばしこの世界を忘れさせてくれるし、頭を空っぽにさせてくれる。 また時に「この世で生き続けるための意味やヒント」を与えてくれることもある。「ディズニーランドがあったから、超会議があったから、ゲームがあったから、アニメがあったから、自分は救われた。」という人もだろう。
ディズニーとニコニコ動画の違いを考えながらそんな事を考えた。(了)