『宮崎駿』的地球の生かし方・人類の生き方 - 吉川圭三
※この記事は2015年04月16日にBLOGOSで公開されたものです
スタジオジブリの小冊子「熱風」の最新版・4月号で宮崎駿さんがジャーナリストの青木理さんととても面白いロングインタビューを掲載している。題して『世界に冠たる日本はない。東の片隅で楽しく、ひっそりしていよう』
内容は「『風立ちぬ』と『悲劇を美しく描く映画』と様々な戦争映画について」や「世界での戦争の発生のしくみ。」や「死生観を持たない政治家の怖さについて」や「イスラムに火をつけた米国女性兵士の捕虜虐待映像。」や「隣村同志でも悪口を言う人間の本性。」や「平和憲法・憲法第9条保持の意味」や「くだらない意見を簡単に出せる時代、発言に責任を持たない人間の大量発生」や「フランスの風刺雑誌テロへ思う事」や「映画とテレビ。レンズでこの世界を見ることについて」・・・宮崎さんにしては政治的発言もたっぷりあり、かなり読み応えがあった。 (TBSラジオの番組の完全版だった)
「熱風」はフリーペーパーだからアッと言う間に無くなってしまう人気誌だが、今回の対談は出色だった。
私が最も惹かれたのは宮崎さんは言う「一番悪いのは『大量生産・大量消費社会の誕生と拡大』です。」という発言だった。この発言は何度も出てくる。イギリスで18世紀半ばに起こった産業革命はまさに世界を激変させてしまった。蒸気機関による大規模移動・布製品などの生産拡大。食物や資源を求めて先進国による植民地主義が横行する。微妙なバランスで均衡していた世界が兵器の開発などに卓越した国によって弱肉強食の侵略主義が発生し「宗教」も「民族」も「文化」もずたずたになる。二つの大戦が発生し、一度は平静を取り戻した世界も東西冷戦から「資本主義市場経済」へ。「1%の富を有する層と99%の貧困層」などというアメリカ社会のドキュメンタリーを見ていると「これは悪夢か?」等と思ってしまう。世界中の企業が「いかに大量生産した製品を、貧者に大量に消費させるか?」を考えているようにも思える。
ジェイムス・キャメロンという映画監督が「エイリアン2」という映画を作ったが、その中にこんな場面がある。近未来、完全武装した海兵隊が恐ろしい怪物エイリアンが山ほど住む惑星の人造施設に突入する。必死の思いで大量のエイリアンと戦う兵士達、血みどろの大変な死闘だ。しかしそれを安全圏で見ているスーツを着た男がいる。軍産複合巨大企業の「ウエイランド・ユタニ」から来た男だ。かれは獰猛なエイリアンを捕獲し地球に連れて帰り生物兵器として使用すべく本社から命令を受けている。・・・未来では巨大企業が悪になる。映画を観た時に「上手い設定だな。」と感心した。
しかし、この映画ではないが、現在、国家、企業、ある種の共同体・組織体が利益を求め手段を選ばず奪い合う世界の状況はますます激化していると思う。そこからあらゆる揉め事・紛争・戦争が起こる。宮崎さんはそういう状態の底に「大量生産・大量消費の拡大化がある」と言っているのだ。資源の奪い合いは起こる。食糧の大量生産・大量廃棄が起こる。エネルギー大量消費社会が起きる。もちろん富の偏在が発生する。
私はネット企業に勤めているが、原籍はテレビ局である。スポンサー収入で経営しているテレビ局はある種「資本主義の先兵」である一面も持つと思うし、「大量生産・大量消費」を振興している部分も持つ。そして私などネットの社会にいるとテレビ局はまだまだ巨大な存在である。こういう立場から見ているとスポンサーモデルはテレビ局にとって必須の収益システムだと思うのだが「番組による視聴者・社会への還元はこれから色んな形が生まれるべきだろう」と思う。癒しなのか・知的好奇心への貢献なのか・娯楽以上の精神的充足感を与えることなのか。世界の実情をもっと知らせることなのか・・・?
これからの企業体は「ただ儲ければ良い」というだけでは、難しくなるだろう。必ず世界や社会と共生していかなければならないのは自明なことであろう。日々の視聴率競争も大事だが、まずテレビを見てもらう環境づくり・習慣造りを番組コンテンツも含めてスポンサーとともに「再構築」すべき時期に来ていると思うのだが。