日本には憲法9条があるから、自衛隊は違憲である…そんな「憲法解釈」は根底から間違っている
■憲法9条1項の文言は、素直に国際法に調和している
(前編から続く)日本国憲法は、前文において、「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想」を自覚して、「平和を愛する諸国民の公正(justice)と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」し、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい」とうたっている。
そして「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」して、国際協調主義の「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務」だという信念を披露している。
「平和を愛する諸国民(peace-loving peoples)」は、1940年大西洋憲章から1945年国連憲章に至るまで、一貫して連合国(United Nations)のことを指す概念として用いられていた。したがってここで「平和を愛する諸国民の公正(justice)と信義に信頼」するとは、アメリカを筆頭国とする連合国が作った国際法体系を信頼し、それに沿った安全保障政策をとっていくという趣旨であり、つまり日米安全保障条約に裏付けられた将来のサンフランシスコ講和条約を見通したものだった。(参考記事:「英語で読めばわかる『憲法解釈』の欺瞞」)
日本国憲法9条の冒頭の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」、という文言は、前文の内容を再強調する意図を持つものであった。1928年の不戦条約と、1945年国連憲章の文言を切り貼りしただけと言ってもよい、憲法9条1項の文言は、素直に国際法に調和しているものとして読むべきである。国際法に挑戦して、侵略に正当に対抗するために用意されている自衛権を否定するものだ、と読むことは、不可能だ。
■憲法9条が定めたのは「大日本帝国軍の解体」である
憲法9条2項は、「戦力不保持」と「交戦権否認」を定めている。ここで「戦力」は、もともとは「war potential」という連合国が使用していた行政用語であり、大日本帝国軍の解体に伴って接収対象となった違法な「戦争」をする潜在力のことである。すでに1項で国際法に沿って「戦争」の違法が定められているので、2項でその潜在力の保持も否定するのは、全く当然のことである。
つまり、憲法9条が、ポツダム宣言受諾に沿って、大日本帝国軍を解体する国内法上の根拠を提供している、ということである。将来にわたって国際法において合法である自衛権行使の手段もついでに保持しない、という意表を突いた含意は、認められない。
「国の交戦権(the right of belligerency of the state)」という概念は、実際には国際法において存在しない。それを「認めない」と宣言したところで、いわば「幽霊の存在を認めない」と宣言するのと同じなので、現実の世界には何も変化をもたらさない。単に「国際法を遵守する」と宣言することと同じである。
■9条が否定した「交戦権」とは何か
それではなぜあえて「交戦権」なるものの存在を否認するかというと、戦中に権威ある戦時国際法のマニュアルを作っていた信夫淳平らが、大日本帝国憲法の「統帥権」規定などを根拠に、主権者は自由に宣戦布告をして戦争を行う「交戦権」を持っているなどと主張していたからである。日本も加入していた国際連盟規約および不戦条約に反した考え方であったが、真珠湾攻撃後の日本における軍部主導の政治状況の下では、出版を目指すのであればとらざるをえない立場であった。
憲法9条2項が否定しているのは、戦中の日本に存在していた、国際法を否定するこの「交戦権」なる概念である。それによって憲法は、国際法遵守の態度をよりいっそう明確にする。憲法9条に、国際法に留保を付す意図はない。
素直に日本国憲法典を読めば、憲法が国際法に合致したものであることは、自明である。そもそも日本を、国際法を遵守する国に生まれ変わらせるために制定されたのが、日本国憲法である。その背景と趣旨を考えれば、憲法が国際法を否定するはずはないのは当然であり、留保の要素もあるはずがない。
■憲法学者の陰謀論めいた「絶対平和主義」説
ところがほとんど陰謀論者めいた憲法学者のイデオロギー的解釈によって、本来の憲法の国際協調主義的は埋没させられることになった。
連合国軍総司令部(GHQ)総司令官であったダグラス・マッカーサーは、回顧録において、次のように述懐した。「第九条は、国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることをさまたげていない。……第九条は、ただ全く日本の侵略行為の除去だけを目指している。私は、憲法採択の際、そのことを言明した。」
ところが憲法学者は、マッカーサーは冷戦の勃発によって態度を変えたのだ、と主張する。当初は、国際法から乖離(かいり)した絶対平和主義を標榜していたはずだ、というのである。その根拠は、いわゆる「マッカーサー・ノート」と呼ばれる憲法草案起草を部下に命じた際の走り書きだけである。
しかし、単なる走り書きの内部メモの文言を拡大解釈させて憲法解釈の指針とまでしてしまうのは、全く不適切である。マッカーサーは、部下たちが国際法に合致するように文言を整備した憲法草案に、何も異議を唱えていない。
憲法学者は、憲法9条の冒頭に国際協調主義の前文の趣旨を確認する文言を挿入した芦田均(憲法改正小委員会の委員長)を、憲法9条を捻(ね)じ曲げる姑息(こそく)な行動をとった人物だと非難したうえ、その画策は憲法学通説によって打ち破られたといった「物語」も広めている。
だが、憲法そのものの一貫した趣旨を明確にしようとした芦田が、なぜ非難されなければならないのか。根拠のない解釈を「憲法学者の大多数の意見だ」という理由で押し付けようとする、憲法学者のほうが横暴なのではないか。
■日本国憲法は国際法上の自衛権を否定したのか
1946年に憲法案が審議された際、共産党の野坂参三議員が、新憲法は「自衛戦争」を認めないのか、という質問をしたのは有名である。これに対して当時首相であった吉田茂は、次のように答えた。
「私は斯(か)くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります(拍手)近年の戦争は多く国家防衛権の名に於(おい)て行はれたることは顕著なる事実であります、故に正当防衛権を認むることが偶々(たまたま)戦争を誘発する所以(ゆえん)であると思ふのであります」(第90回帝国議会 衆議院 本会議 第8号 昭和21年6月28日)
これをもって憲法学者は、吉田は国際法上の自衛権を否定し、絶対平和主義をとっていた、などと主張する。「自分は国際法上の自衛権を否定したことはない」という後の吉田の説明を、憲法学者は否定する。
だがこれは、国際法の概念構成を無視した、悪質で不当な糾弾である。そもそも質問者の野坂が、憲法は「自衛戦争」を認めているのか、と聞いた時点で、戦前の日本の軍部が自己正当化の道具として用いたあの「自衛戦争」を、憲法は認めているのかという問いになってしまっている。
戦前の軍部が主張した「自衛戦争」なるものを、日本国憲法は国際法の考え方に沿って、認めない。吉田の回答はごく原則的なもので、何らおかしなところがない。しかしそれは国際法上の自衛権の否定とは、全く違う。
戦前・戦中の日本の軍部が主張した「国家防衛権」や「国家の正当防衛権」なるものは、いずれも国際法に存在しない概念だ。「交戦権」や「自衛戦争」も同様である。吉田が否定したのは、国際法に存在しないそうした概念を振り回し、現代国際法では認められない行為が許されるかのような詭弁(きべん)を使うことであって、国際法上の自衛権を否定したわけではない。
そもそも国際法では認められていない概念を、ドイツ国法学の擬人法的な「国家は生きる有機体で、自然人と同じような権利義務の主体だ」といった考え方で強引に採用しようとするから、「自衛戦争」といった奇妙な概念を認める否か、という押し問答が生まれる。混乱は、戦前にプロイセンに留学した者たちが学界を寡占的に支配し、ドイツ国法学に沿った憲法理論があたかも人類普遍の真理であるかのように思い込みがちだったところから、生まれてきている。つまり学者たちの陰謀あるいは誤解の所産でしかないのである(参考記事:「東大名誉教授が掲げる『憲法学者最強説』のウソ」)
■国際法概念に沿った憲法解釈や改憲を
日本国憲法は、国際法を遵守することを求めている。したがって憲法解釈も、国際法に沿って素直に行えばよい。そうすれば、国際法にも憲法にも存在しない奇異な概念から成り立つ「『交戦権』や『自衛戦争』を日本国憲法は認めているか否か」といった類いの問いを、深刻に受け止める必要もなくなってくる。「戦争は一般的に違法であり、そのため対抗措置としての自衛権の行使は合法である」、という国際法の原則だけを淡々と述べ、それに沿って憲法を理解すれば十分だということになってくる。
ウクライナにおける具体的かつ深刻な国際的な危機を目撃して、今や日本社会にも、憲法学通説の憲法解釈では現実に対応できないという認識が広がっている。それは憲法典がおかしいからではない。冷戦時代の左右のイデオロギー対立の構図の中で、素直な憲法解釈がないがしろにされたことが、諸悪の根源なのである。今こそ、国際法に沿った、素直な憲法の理解を確立したい。
イデオロギー対立の結果、憲法解釈が混乱してきている事情はある。それを改善するには、憲法改正を行うべきだということであれば、それはそれで歓迎である。例えば9条3項を新設し、国際法に沿って行動する「軍隊」が、憲法9条の規定にも憲法全体の理念にも反していないことを明らかにするのは、適切だろう。
いつまでも冷戦時代のイデオロギー対立にとらわれ、素直に憲法を理解することを恐れたままでは、日本の安全保障政策および国家としての体系性は、いよいよ近い将来に壊れていく。現実を直視すべきだ。
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篠田 英朗(しのだ・ひであき)
東京外国語大学教授
1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了、ロンドン大学(LSE)大学院にて国際関係学Ph.D取得。専門は国際関係論、平和構築学。著書に『国際紛争を読み解く五つの視座 現代世界の「戦争の構造」』(講談社選書メチエ)、『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保』(風行社)、『ほんとうの憲法―戦後日本憲法学批判』(ちくま新書)など。
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(東京外国語大学教授 篠田 英朗)