「ウェルビーイング」を感じるために「推し」がいい理由とは?(写真:Wiphop Sathawirawong/GettyImages)

幸福で肉体的、精神的、社会的すべてにおいて満たされた状態を指す「ウェルビーイング」という言葉。持続可能な社会を目指すうえで重要となりつつあるキーワードですが、難解でとっつきにくいイメージを持つ人も少なくないでしょう。

しかし、実はその本質に迫るカギは、昔話をはじめとした古事記、アイドル、和歌などの日本文化に隠されていたとしたらどう思うでしょうか。

気鋭の予防医学研究者・石川善樹氏と、人気アナウンサー吉田尚記氏の共著『むかしむかし あるところにウェルビーイングがありました 日本文化から読み解く幸せのカタチ』から抜粋・再構成して紹介します。(前回の記事はこちら

日常の今いる場所で体感できるウェルビーイングは何かと考えると、誰かを「推す」という行為がやはりきわめてそこに近いかもしれません。なぜなら、推している最中は、人は自分自身を忘れて解放されるからです。

理屈を超えて何かを信じることは、現代人にとって実はとても難しい。マインドフルネスが世界的に流行したのも、そうした背景があってのことでしょう。

さて、ところで曹洞宗の開祖である道元は、仏道を修行していくうえでこのような言葉を残しています。

「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり」

仏道をならう(修行する)ということは、自分を究明することである。自分を究明するということは、自分を忘れるということである。

つまり、「自分」という感覚を忘れ、遠く離れることで、「自分」が得られる。道元は悟りへ至る道のりをこのような言葉で表現しました。ウェルビーイングの本質とも重なるこの感覚は、何かを推した経験を持つ人であればすでに体感しているのではないでしょうか。

自分より大切に思える存在

ここまで「推し」という現代的な概念を使って解説してきましたが、これが「どうすればウェルビーイングに生きられるか」に対する私からのひとつの提案です。 

すなわち、「自分よりも大切なものを見つけてください」。

それがわが子であったり、会社であったりしたのが昭和という時代でした。子どもと会社が「推し」だった。そう考えると、子育てが一段落した人がアイドルに熱中するようになるのも、自分より大事な新しい「推し」を無意識に求めての行為といえるでしょう。

僕は大半が無宗教の日本人にとって、「推し」はライトな宗教だと思っています。情熱をどれだけ捧げてもOK、向こうから拒否されることもない、変えようと思えば宗派も変えられる。推しがいるから日々のつらさが和らいでいる人、多いですよね。(吉田氏)

楽しさ、感謝、愛情、喜び。誰かを推しているときに湧き上がる感情は、間違いなく人生をウェルビーイングにしてくれます。

正しさと理屈だけでどこまでも行こうとする人生は、結構困難です。キャリアプランやライフプランを思い描いても、そのとおりに進む人生はありえません。もちろん、プランニングそれ自体は否定しませんが、因果だけで組み立てられた道はやはり細くて心もとない。

だからこそ、自分よりも大事にできる何かが心を下支えしてくれれば、人生を進むエネルギーがもらえるはずです。

「移動」からウェルビーイングが始まる

「人がよく生きるとは何か」をテーマに、私はこれまでウェルビーイング領域でさまざまな企業や大学とプロジェクトを組みながら、「ウェルビーイングはここにありますよ」という道筋をひとつずつ示す活動を行ってきました。

先に述べた「自分より大切な存在を作る」もそのひとつの方策です。

一方で、多様性の時代である今は、大勢の人に対して「これはウェルビーイングなり」と示すことがとても難しくなっています。100人いたら100通りのウェルビーイングの形があるからです。だからといって、「結局、一人ひとり違いますよね」という安易な結論に押し込めることは、何も言っていないのと同じです。

研究を続けていく過程で、私はつねにそんなジレンマを感じていました。

ジレンマから抜け出すきっかけとなったのは、イギリスの脳神経科学者であるフリストン教授の「自由エネルギー原理」との出会いです。自由エネルギー原理とは、「脳の情報処理に関する統一原理」と言われています。

複雑すぎるためここでは簡単に表現しますが、端的に言うと「脳はサプライズを最小化するように働く」ということです。ややこしいのですが、目先のサプライズをあえて求めることで、長い目で見たときのサプライズを最小化しているのです。例えば、居心地がよい場所にとどまるのではなく、見知らぬ土地に出てみることで結果的に「世界に対するサプライズ」を減らしているのです。

壁も天井も真っ白な部屋に閉じ込められると、人間の脳は刺激を求めて幻覚や幻聴が起きるようになるともいいます。それくらい退屈を嫌がる一方で、予測不可能すぎる未来も避けようとする。では両者のちょうどいいバランスはどこにあるのでしょうか。

私が考えるひとつの仮説が「移動の多様性」です。ここでいう多様性とは、さまざまな距離を移動するという意味でもあるし、家の近所であってもいろいろな場所に行ってみるということでもあります。

移動すると、見える風景は変わります。新しい発見や出会いがあれば、それが短期的なサプライズとなり、ウェルビーイングにも繋がりやすい。

日本の昔話には「もとの地点に戻る」パターンが多く存在します。外に出て、そして再び家に戻ってくる。この構造は旅そのものともいえるでしょう。

短期的なサプライズを求めて外に出て、再びもとのゼロの自分に戻る。
そうすることで自分にまた無限の可能性が開いてくることを、昔の人々も知っていたのでしょう。

昔話がその国の文化や社会の価値観に属して語り継がれていくものであるならば、日本の昔話が「もとの地点に戻る」パターンが多いのはやはり自然なことなのかもしれません。

また、日本を含めた東洋思想では、自然という全体の中に自分がいるという考え方をベースにしてきました。自分という個が極端に突出していくのではなく、大きな自然の一部として自分があって、最後は再びもとの位置へと戻っていく。最初と最後が同じ地点になる物語が多いのも、「もとへ戻ろうとする力」が強く働いているからかもしれません。

よく見知った人ばかりに囲まれ、生まれ育ったコミュニティの中でずっと暮らすことは安心で安全です。けれども、その状態がずっと続くとそれはそれでサプライズが足りない。

安心とサプライズ。本来であれば相反する両方を求める脳の働きに応えるように、その隙間を繋いだのが昔話であり、旅は昔話と同じような効果を持つのではないでしょうか。

移動にもさまざまな形態がある

ここでひとつ研究を紹介させてください。一口に移動といっても、さまざまな形態があります。例えば、近所を散歩することは短距離の移動です。車で数時間かけてちょっと遠出することは中距離の、海外へ旅することは長距離の移動、というように大まかにここではくくっていきましょう。

そうした「移動の多様性」が何をもたらすのかについて、ここでは研究結果を踏まえて見ていきたいと思います。

法政大学准教授の永山晋さんという経営学者がいます。永山さんの専門は「組織のクリエイティビティと価値創造」。創造性が高い人やチームにはどのような特徴があるのか、というテーマについて研究している、その分野の第一人者でもあります。

私と彼はどちらも働き方の未来について考える「ヒューマンファースト研究所」のアドバイザーであると同時に、自由エネルギー原理について毎週のように一緒に勉強している仲間でもあります。その彼と一緒に調べた「移動の多様性とウェルビーイングの関係性」という最近の研究から、とても面白い結果がわかりました。

まず、「移動した先で何をすればウェルビーイングになれるのか?」という視点で私たちは2種類の調査をしました。

ひとつは、移動した先で仕事をした場合。もうひとつは、移動した先で自分らしくある、つまり遊んだ場合です。

これは普通に予想すると、どう考えても「移動した先で遊ぶ」ほうがウェルビーイングが高まる、という結果になるのでは?(吉田氏)

仕事のモチベが最も上がる移動距離は?

結果は吉田さんの予想通りです。移動先でウェルビーイングになれたのは、やはり自分らしくいられる好きな時間、遊びの時間を過ごした人のほうでした。移動先で仕事をした人たちは、ウェルビーイングはさほど高まらなかった。

ところが、面白いのはここからです。移動をした先で仕事をした人たちは、ウェルビーイングは高まらなかったのですが、仕事に対する熱量、専門用語でいうところのエンゲージメントに限っては飛躍的に高まったのです。

しかも1カ所ではなく、複数のいろんな場所に移動して、そこで仕事をするほうが仕事のやる気は上がることがわかった。ではどこに移動して仕事をすると、エンゲージメントが最も高まったと思いますか?

答えは近所のカフェ。つまり、在宅や会社よりも近所のカフェで仕事をしたほうが、仕事へのエンゲージメントが高まるという結果が導き出されたのです。

移動が仕事にもたらすポジティブな影響について、もう少しご紹介しましょう。

「座っているときと歩いているときでは、思い浮かぶアイデアはどれくらい違うのか」という移動とアイデアの関係性に迫った研究もあります。もう予想がつくかと思いますが、より多くアイデアが浮かんだのはやはり歩いているとき、さらにいうと、屋内よりも屋外で歩いているときのほうがアイデアは増えた。

つまり、移動をしている最中に、人間の脳はひらめきやすい状態になっているようなのです。

近所のカフェをあちこち巡る。新幹線や飛行機でワーケーションをしに行く。これらはいずれも仕事面における明らかなメリットです。移動距離が長いほど、創造性(クリエイティビティ)が高くなるという見方もできるでしょう。


ただ、ではこれがウェルビーイングかというとやはり違います。よく生きるためのウェルビーイングではなく、あくまで、よく仕事をするためのウェルドゥーイングと捉えるほうが正確でしょう。

その前提に立ってもう一度、移動とウェルビーイングの関係性について調べてみたところ、「いろんな場所で遊んでいる人はウェルビーイングが高い」という結果が出ました。

仕事への貢献はいったん脇において、一人の人間として心ゆくまで遊ぶ。それがとても大切であるという事実が研究を通じてあらためてわかったのです。

(石川 善樹 : 予防医学研究者)
(吉田 尚記 : ニッポン放送アナウンサー)