パナソニックの創業者、松下幸之助は事業経営のみならず、社会活動にも熱心だった。作家の福田和也さんは「特に松下政経塾の設立は、彼の死後も日本の政治と経済に影響を与えている点で、巧い金の遣い方だったと思う」という――。

※本稿は、福田和也『世界大富豪列伝 20-21世紀篇』(草思社)の一部を再編集したものです。

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1977年1月29日、自民党の政経懇談会で乾杯の音頭をとる松下幸之助松下電器産業相談役(右・当時)。左端は福田赳夫総裁(首相・当時)(大阪市北区のロイヤルホテル) - 写真=時事通信フォト

■松下政経塾を設立した松下幸之助の慧眼

日本の金持ちで一番、金の遣い方が巧かったのは誰だろう。

人によって意見は異なるだろうが、まず指を折るべきなのは、松下幸之助ではないか。

私が、松下をして「巧い」と思うのは、松下政経塾を作った、の一点に拠っている。なぜなら、政経塾の設立によって、自らの死後も、長期にわたって、日本の政治と経済に影響を与え続けているからである。

現在、松下政経塾出身の政治家は、衆議院議員二十三名、参議院議員九名、都道府県議会議員八名、市区町村議会議員十五名、知事二名、市長・区長・町長十一名という陣容であり、所属党派は多岐にわたるが、一大勢力であることは間違いないだろう。

しかも、政経塾は全寮制で、塾生たちは起居を共にしているわけだから、その連帯感、同志的な結合は、いまや日本社会では珍しい、濃厚かつ堅固なものになっている。

これだけの、周到さをもって、日本の将来に、確実に、持続的に影響力を及ぼすことに「成功」したのだから、やはり、松下幸之助は、稀代の人物という他ない。

もちろん、政経塾出身の政治家の資質や業績をどう評価するかは、なかなか難しい問題ではある。ただ従来、国政に参与したくてもできなかった、有志の若者を政治の舞台に立たせる、その助力をしたということが、格別な試みであることは、否定できない。

■「武士」ではなく「商人」が政治に乗り込む

松下は、政経塾の発足にあたって、ポケットマネーから七十億を拠出した。七十億円には、土地代は含まれていない。茅ヶ崎にかつてあった、ナショナル学園という販売店研修の施設の土地を、松下幸之助個人が所有していた京都東山の千五百坪の土地と交換したという。

その発足にあたって、評論家の山本七平が、面白い感想を述べている。

「日本には、社会の秩序を保つのは武士の任務で町人の任にあらず、という伝統があって、町人が政治に関係することがなかった。松下幸之助さんという大阪商人が政治家を養成するのはおもしろいじゃないですか。経済的合理性を尊ぶ政治家が出来るのはいいことです」(『週刊文春』昭和五十三年九月二十八日号)

『日本人とユダヤ人』の著者らしい、諧謔(かいぎゃく)に富んだコメントだが、「武士」が司るべき政治が、機能不全に陥った時に、「商人」が政治に乗り出す、という見立ては的確なものといえる。

■絶対的な弱者の状況で、本領が発揮された

松下幸之助は、典型的な立志伝中の人物だ。生家は豊かだったが、父、政楠が米相場に失敗し、小学校は四年までしか通えなかった。

幸之助にとって不幸だったのは、兄弟が片端から早世したことだった。長男の伊三郎は二十三歳で、次男の八郎は十七、次女の房枝は二十、三女のチヨが二十一、四女のハナが十七、五女あいが二十八。唯一人、長女のイワだけは、四十八まで生きた。

明治三十七年十一月、大阪の宮田火鉢店に奉公したのを手初めに、翌年二月、五代自転車店に入り、五年ほど勤めた後、大阪電灯の見習工に採用される。ここから電気機器と幸之助の関わりが始まるわけだ。

大正二年から、関西商工学校夜間部予科に通い、翌年、電気科に進んだが、本科は一年ほどで辞めている。本科では、授業がすべて口述筆記だったために、読み書きが不自由な幸之助はノートをとることができなかったのである。その上、幸之助は、胸に病を抱えていた。

大阪歌舞伎座前の映画館の改装工事に従事している時、工期の遅れを取り戻すため、師走の三日間、徹夜で野外工事をした後、肺尖カタルを発症してしまったのである。

二十歳になる前の発病により、幸之助は、否応なく、自らの今後について、考えざるを得なくなった。その頃の松下の姿は、「青ビョウタンという言葉が当てはまるような、ゾッとするような姿」であった、と本人が後に記している(『仕事の夢暮しの夢』)。

満足な学歴もなく、健康は損なわれ、もとより蓄えはない……。その絶対的な「弱者」の状況で、幸之助の本領は、発揮された。知識に頼らず、身体を労り、金をあてにしない。

■「松下電気器具製作所」設立初年度のヒット作

大阪電灯を退社した後、大正七年三月に松下電気器具製作所を創立し、所主となった。すでに大正五年、改良ソケットの実用新案を出願しているので、電気関係の器具、部品については、自信があったのだろう。

自宅――とはいっても二畳と四畳半の二間――を工場にして、ソケット製造に挑んだが、さっぱり売れなかった。妻のむめのは、質屋通いをして、幸之助を支えた。ようやく、一息ついたのは、川北電気会社から、電気扇風機の碍盤(がいばん)――絶縁体――の注文を得た時だ。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Margalef-Eva

碍盤には、金具を付ける必要もなく、材料は練物なので、手間も資金もかからない。妻の弟、井植歳男――後の三洋電機社長――と二人で碍盤を製造して、なんとか納品をすませることができた。

「こうして最初の年は、ソケットの売り出しという初めての計画は失敗に終わったけれども、思わぬ碍盤の注文によって多少とも収益を上げることができ、商売を続けていくことにひとしおの自信もできて、行き詰まりも打開され、ここに改めて器具の製作考案にやや本格的にはいることができたのであった」(『私の行き方考え方』松下幸之助

大正七年三月、大阪市北区西野田の大開町、わずか二間の松下電気器具製作所を設立して以来の、幸之助の歩みは多くの人が知るところだろう。

大正十二年に自転車ランプを売り出し、昭和に入ると「ナショナル」ブランドをたち上げ、アイロンなどの電熱部門を発足させ、四年の世界恐慌も住友銀行の融資を受けて無事乗り切り、六年には家庭用ラジオ販売を始め、八年には事業部制を導入するとともに、本社を門真に移転させた。十年には株式会社化して松下電器産業株式会社に改組、とその成長は目覚ましいものだった。

■拡大する戦火の下、成長を続けた松下電器

戦前日本の大きなターニング・ポイントは、昭和十二年である。同年六月四日に第一次近衛内閣が発足したが、その一カ月後の盧溝橋事件をきっかけに日華事変が勃発、八月には上海に戦火が飛火している。

政府も大本営も、小規模の軍事衝突にすぎず、短期間で終結すると予測していたが、戦火は拡大の一途をたどり、その拡大過程の中で、日本の政治、経済、文化もまた、変質していった。

松下電器もまた、国家体制が変わってゆくなか、従来の民間の需要に限らず、軍需にも対応せざるを得なくなった。もっとも、軍需を引き受けることは、けして悪いことばかりではなかった。たしかに、陸海軍の指導、統制を受けることは、好ましくはなかったが、支払いは確実であり、利益は十分得られた。

それ以上に重要なのは、兵器という高い精度を必要とする製品を扱うことによって、会社の技術力自体が、飛躍的に伸びたのである。そして、この、戦線が拡大していく、世相の急変を前にしながら、松下幸之助は、一つ目の絶頂期ともいうべき、節目を迎えていた。

■300年間残る建物としてつくられた「光雲荘」

昭和十二年から、二年半の月日と六十万円の巨費を注いで、兵庫県西宮に自宅「光雲荘」を建てたのである。

松下幸之助は、光雲荘を、三百年間は残る建物にしたい、という抱負で建てた。

私は、一度、光雲荘を訪れたことがある。数寄屋造りに書院造りを折衷し、茶室、洋室とあらゆるスタイルの部屋が、吟味されぬいた素材、意匠により彩られていた。

特に、照明器具は壮麗をきわめていて、電器メーカーとしての矜持を賭してという意気込みが感じられた。アールデコ様式に則った、軍艦を象った巨大な吊り下げ式のランプ。マホガニーの天井に、アールヌーボー風の花、葉をあしらった嵌め込み式の電器照明、笠型の磁器にした茶室の手元灯。

円状に湾曲する大きなガラス張りの談話室は、ル・コルビュジエを彷彿とさせるような、モダンなデザインであるけれど、何よりも驚かされるのは、その、二メートル以上に及ぶ、深く広い軒が、一本の柱にも支えられずに、自立していたことである。

その軒の上には、当然のように、重厚な瓦が載せられている。「三百年後」という、松下幸之助の思いの強烈さを、一番、直接に感じることができるのが、この、一本の支柱ももたない、深い、カーブを描いた軒であることは間違いない。

叩き出しと思われる赤銅の樋とその集水器は、まるでフォーミュラ1レーシングカーのような、スマートさと機能美をみせつけ、垣は、典雅を極めた竹穂による離宮垣で構成されていた。まさしく、幸之助の思いのこもった、典雅かつ豪奢な建物だった。

けれども、実際のところ、光雲荘は「三百年」、創建当時の姿を維持することはできなかった。平成七年一月十七日の阪神・淡路大震災により、倒壊してしまったのである。

創建から約六十年後のことであった。その後光雲荘は、再建され、平成二十年、枚方のパナソニック人材開発カンパニーの敷地内に移築された。

■松下が後継者として選んだ青年の素性

松下は、男児に恵まれなかった。大正十五年、唯一の男児として授かった幸一は、一歳になる前に亡くなってしまった。

光雲荘は、幸之助の後継者たる婿を迎えるための、邸宅という意味あいも帯びていた。

幸之助が、自らの婿として、白羽の矢を立てたのは、平田正治という二十九歳の青年だった。

東京帝大を卒業し、当時三井銀行に勤務していた。正治は、平田東助伯爵の孫である。

平田東助は、米沢(山形県)の人。明治二年、藩命により大学南校に修学し、四年岩倉具視率いる欧州回覧に加わり、ドイツで法律、政治を学び、帰国後、内務、大蔵省に勤務した。十五年には、憲法制定のため伊藤博文の渡欧に随行、帰国後、太政官書記官、法制局参事官、枢密院書記官長、法制局長官、桂太郎内閣の農商務大臣、第二次桂内閣の内務大臣、貴族院議員、枢密顧問官を歴任している。山縣有朋系の官僚政治家として、明治、大正の政治を切り回した人物である。

その、平田東助の孫を、自らの女婿として迎えようと決断した、松下幸之助の、心中、目論見とは、一体、どのようなものだったのだろうか。

■社会の一員としての自覚を強くもつ

松下幸之助を語る上で、その実業家としての手腕とは別に、社会運動家としての側面を無視する訳にはいかない。

戦時中、松下幸之助は、「特攻の父」大西瀧治郎にその創意と生産技術を認められ、畑違いの海軍艦艇から、ついには飛行機までも生産する羽目になった。

もちろん、祖国の命運をかけた戦争に対して、参加し貢献するのは、近代国家の国民としては、当然のことだろう。とはいえまた、結局、敗北してしまったという事実は強い喪失感をもたらしたし、国土と人心の荒廃は大きな衝撃と悲しみをもたらした。

たしかに、本来の事業である家庭電器製品の製造に復帰できたということは、大きな悦びだったに違いない。けれども、松下は、戦争という暗い雲が通り過ぎた後にも、電器メーカー経営者という立場からのみ、社会と関わっていた訳ではなかったのである。

■日本国憲法公布の日に研究所を開設

昭和二十一年十一月三日、日本国憲法が公布された。

アメリカ占領軍の進駐がほぼ完了した十月四日、近衛文麿国務大臣と面会したダグラス・マッカーサーは、憲法は改正しなければならないこと、改正に際しては民主主義的要素を十分に取り入れること、選挙権を拡大し、婦人と労働者にも選挙権を付与することを要求した。

けれども、結局、日本側は新しい憲法を自ら作り上げることはできなかった。GHQは、二十人程度の米軍将校と軍属を集めて新憲法を起草し、日本政府はその草案に基づいた憲法を発表した。憲法は枢密院の諮詢を経て、衆議院で二月、貴族院で一月、審議され、可決に至った。

憲法公布の日、門真の松下電器本社修養室において、PHP研究所の開所式が行われた。

写真=Mti/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons
現在のPHP研究所 - 写真=Mti/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

参列者は、社の幹部七十人、所員は松下を筆頭に七人にすぎない。

PHPとは、松下幸之助が考案した標語で、その含意は、Peace and Happiness through Prosperity、つまり「繁栄を通して平和と幸福を実現する」、ということである。

■理不尽な処遇の中、PHPを軸に活動を続ける

当時、松下は、占領軍から公職追放の処分を受けていた。そのため社業に関わることができなかった。

「ヤミの時代に公定価格を守り、戦争被害者(引用者注:敗戦により軍需の支払いを踏み倒された被害者の意)としてのばく大な借金を、少しでも返そうと心がけている。しかるに働けば働くほど赤字はふえ、あまつさえ税金滞納王として公表された。自分は正しいことをしているのに、自分の力以外の作用で苦境に立たされている。なぜ人間はこんなに苦しまなければならないのか、そこから私の人間研究がはじまった。われわれは真の幸福を招来できないものだろうか。こうして私のPHPの研究がはじまった」(『社史資料No.11』「戦後5カ年のわが社」より「会長の述懐」)

松下のもっている、ある意味でのラジカルさが前面に出た言葉である。いくらでも利益を得られる機会がありながら公定価格を墨守し、国家の求めに応じて新事業に取り組んだため追放処分を受け、その上税金を払うことができなかったために、滞納王という汚名を着せられてしまった。なんとも理不尽な、納得のいかない処遇だと思っても、無理はないだろう。旧約聖書のヨブさながら、という心境だったのではないか。

けれども、松下は宗教に頼ることも、イデオロギーに縋ることもなく、研究と運動に邁進した。松下は、研究所を設立した十一月三日から年の末まで、四十三回の講演、懇親会を開いている。まるで、総選挙前の代議士を思わせるような精力的な活動ぶりだ。

昭和二十五年までに、松下は、京都府庁、大阪府庁、住友銀行本店、関西電力、東西本願寺、名古屋刑務所などを巡り、PHPの理念を説き続けた。PHP研究所は、京都の本部を中心として、今日も、松下の思想の研究と普及に努めている。

■老いてなお燃え上がる社会への使命感

そして昭和五十七年、松下幸之助は突如、保守新党の結成に名乗りを上げた。

ちょうど、鈴木善幸総理が退任し、中曽根康弘、安倍晋太郎、河本敏夫、中川一郎の四人により、総裁選予備選が行われる、というタイミングである。

福田和也『世界大富豪列伝 20-21世紀篇』(草思社)

松下は、既存の政治家には、一切、声をかけなかった。財界の主要な人物と連携して、財界が主導する保守新党を、造ろうというのである。経済の分かる、商売に通じた人間こそが、国会議員になるべきだ、という信念をいよいよ実現する機会だ、と思ったのである。

松下の話に耳を傾けたのは、永野重雄ただ一人だった。永野は当時、新日本製鐵(せいてつ)の名誉会長であり、日本商工会議所の会頭であった。永野から見ると、松下は中小企業経営者のアイドルだった。中小企業の経営者たちは、みな、松下幸之助にあやかりたいと思っている。その影響力を元に、日本商工連盟を作り日本の政治を正そう……。

永野も、また、松下と同様の危機感を抱いていたのである。結論から言えば、新党計画は、結局、頓挫した。しかし、晩年の松下の、強い、燃えるような使命感は、やはり胸を打つ。

松下は平成二年四月二十九日に気管支肺炎のため、守口市の松下記念病院で亡くなった。九十四歳だった。遺産総額は二千四百四十九億円で日本最高とされるが、そのうちの九十パーセントは松下電器グループの株式だったという。

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福田 和也(ふくだ・かずや)
作家
1960(昭和35)年東京生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。同大学院修士課程修了。慶應義塾大学環境情報学部教授。『日本の家郷』『教養としての歴史 日本の近代(上・下)』『人間の器量』『死ぬことを学ぶ』『昭和天皇』『〈新版〉総理の値打ち』等、著書多数。
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(作家 福田 和也)