川崎憲次郎の投球に解説者が「おかしい」。不気味なほど調子がよかった
【エース】ヤクルト・川崎憲次郎 前編(前回の記事はこちら)
四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。
1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、黄金時代を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。
1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。両チームの当事者たちに話を聞く連載の24人目。
第12回のテーマは「エース」。前回の西武・工藤公康に続いて、今回はヤクルト・川崎憲次郎のインタビューをお届けしよう。
1993年の日本シリーズ第4戦で先発したヤクルトの川崎 photo by Sankei Visual
【野村監督が取り組んだ「意識改革」】
――スワローズとライオンズが激突した1992(平成4)年と、翌1993年の日本シリーズについて、当事者の方々に思い出を語っていただいています。
川崎 もう25年以上も経っているのに、今でもこうして取材していただけるんですから、当事者としては、やっぱりすごく嬉しいですね。
――川崎さんがスワローズ入りしたのは1989年。当時はまだ低迷期であり、関根潤三監督が池山隆寛選手、広沢克己(現・広澤克実)選手を積極的に起用し、若手の台頭を促していた時期でした。そして、翌1990年からは野村克也監督が就任。川崎さんご自身も、チームの変革期を目の当たりにしていますね。
川崎 そうですね。野村さんが監督になって、最初に取り組んだのが選手たちの「意識改革」でした。みなさんご存じのように、キャンプ初日から野球とはまったく関係のない「人間とは何か?」から始まる長いミーティングを通じて、選手たちの考え方を変えるところから始まったと思います。
――それまでのミーティングとは、どのように違ったのですか?
川崎 もう、全然違いますよ。それまではサインの確認や、門限についての説明をしたりするだけでした。でも、野村監督になってからは、休日の前の日以外は、毎晩1時間から1時間半くらいかけて、「人間とは?」「仕事とは?」「人生とは?」と、野球とは関係のない話ばかりでしたから。野球の話になるのは、キャンプインしてから3日目ぐらいからでした(笑)。よく覚えているのは、「野球を辞めてからのほうが人生は長いのだから、人間として、社会人として、きちんとしていなさい」と言われたことですね。
――野村監督就任1年目は5位、2年目に3位になって、3年目の1992年にリーグ優勝を果たしました。この3年間で、選手たちの「意識改革」は実現されたのでしょうか?
川崎 1年目は5位で、「まぁ、いつも通りだ」という感じだったんですけど、大きかったのは2年目に3位になったことです。この時に選手たちが「オレたちもやれるんだ」と自信を持ったんだと思います。戦力的にも充実し始めていた頃だったのも、ちょうどよかったのかもしれないですね。
【スタンドで観戦した1992年日本シリーズ】
当時を振り返る川崎氏 photo by Hasegawa Shoichi
――野村監督の代名詞である「ID野球」とは、どのような野球だとお考えですか?
川崎 ID野球というのは、要するに「頭を使え」という野球ですね。他球団と比べて、実力的には決して劣っているわけじゃない。じゃあ、どうすれば勝てるのかといえば、「頭を使う」ということ。今までそんな教えを受けたことがなかったけど、それが少しずつ浸透していったのが1992年のリーグ優勝につながったんだと思います。
――しかし、14年ぶりにリーグ制覇した1992年は、川崎さんは故障のために一軍登板は一度もありませんでした。この年について、どんな思い出がありますか?
川崎 この年のキャンプで右足首を捻挫して、早々に出遅れました。それが思ったよりも長引いたことで、焦りも大きくなっていったんです。キャンプ終盤になっても、満足に投げ込みができないから、多少、無理をしてもブルペンで投げていたら、今度は右ひじがおかしくなってきました。足をかばいながら投げたことで、その負担がひじに出てきたんです。
――この年、一軍登板はゼロでしたが、二軍での登板はあったのですか?
川崎 二軍では何試合か投げました。練習ではなんとか投げられるんですけど、試合になるとやっぱり力が入ってしまって、投げると痛みが出てきました。それで、「やっぱり痛いです。投げられません」ということの繰り返しでした。
――チームは激しいデッドヒートの末にセ・リーグを制覇。日本シリーズに進出したものの、川崎さんは何もできないまま、仲間を応援することしかできなかったと。
川崎 そうですね。この年の日本シリーズは、神宮で行なわれた試合はスタンドで観戦していました。プロ野球の世界に入って、一度も日本シリーズを経験することなく引退していく選手もいます。せっかく、自分の現役中にチームが優勝して、日本シリーズに進出したのに、「どうして、オレはあの場にいないんだ」という思いばかりでしたね。
【待望のシリーズ初登板は1993年の第4戦】
――そうして悔しさを抱えた翌1993年。右ひじの調子はどうだったのですか?
川崎 1992年のオフに小学生の頃からお世話になっていた地元の電気治療院にずっと通ったことで、「完治」とは言わないけど、「なんとか投げられるだろう」という状態で、1993年のキャンプに入ることができました。1993年のキャンプ初日のことはよく覚えていますね。野村監督が、「セ・リーグを連覇して、今年こそ日本一に!」とハッキリと言いました。その後のミーティングでも、何度も「日本一」という言葉が出てきて、選手たちの意識に強く刷り込まれていきました。
――川崎さんも含めて、多くの選手たちが「今年こそ日本一に!」という意識づけがどんどん強くなっていったんですね。
川崎 僕は「試合に出られなかった悔しさ」だったけど、他の選手たちは「日本一になれなかった悔しさ」が強かったんだと思います。口癖のように「今年こそ、西武を破って日本一になる」と言っていました。「打倒西武」が目標になっていたんだと思います。
――そして1993年もセ・リーグ優勝を実現。川崎さんは先発ローテーションの一員として10勝(9敗)を挙げ、カムバック賞も獲得しました。
川崎 ひじの痛みはあったし、まだまだフラフラしている状態でした。でも、なんとか10勝したことで、「この成績ならば、日本シリーズに投げてもいいだろう」という思いはありました。
――2勝1敗で迎えた第4戦が、川崎さんにとってのシリーズ初登板となりました。これはいつ、どのタイミングで告げられたのですか?
川崎 ちょっと記憶が定かではないですけど、シリーズが始まる直前のホテルニューオータニでの合宿中のことだったと思います。僕自身はプレッシャーを感じなかったですね。前年の悔しさがあるから、「今年は日本シリーズのマウンドに立てる」という嬉しさのほうが勝っていて、むしろ「楽しい」という感覚でマウンドに上がりました。意識していたのは、「いかに自分のピッチングができるか」ということだけでした。
――日本シリーズの頃の、川崎さんご自身の調子はどうだったのですか?
川崎 結果的に、僕はこの4戦のあと、最終第7戦も登板しますが、この2試合はプロ野球人生を通じて、指折りの調子のよさだったんです。西武の一番・辻(発彦)さん、二番・平野(謙)さんが、僕の真っ直ぐを見逃して、ぽんぽんストライクを奪えた。それで、「あれ、ひょっとしたら、今日は意外と調子がいいのかも」と感じたことを覚えています。
この日のテレビ中継はフジテレビで、前監督の関根さんが解説だったんですけど、あとで録画テープを見てみると、関根さんが「あれ、今日の川崎はおかしいぞ」ってずっと言っているんです。自分でも「おかしいな」っていうぐらい調子がよかったですね。
――結果的にこの日の試合は、川崎さんの好投によって1−0で勝利。対戦成績を3勝1敗とし、「王手」をかけることとなりましたが、勝敗を分けたスーパープレーがありましたね。
川崎 はい。8回表、飯田の哲ちゃんのスーパープレーですね。僕の中で飯田(哲也)さんは”神”ですよ。そして、あのプレーは今でも忘れられない、「奇跡」だったと思います。
(後編に続く)