球団初となる3連覇で、27年ぶりに本拠地でのリーグ優勝を決めて胴上げされる広島の緒方監督=26日、広島市のマツダスタジアム(写真:共同通信社)

皆さんこんにちは、プロ野球解説者の礒部公一です。

プロ野球はいよいよ終盤。残り試合もわずかになってきました。セ・リーグは広島カープが本拠地で優勝を決め、パ・リーグは埼玉西武ライオンズが首位を独走しています。特にセ・リーグの3位争いが混沌としてきて見応えがありますね!


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まずは、セ・リーグです。

ついに首位のカープが優勝を決めました!

直近の試合では足踏みが続いていましたが、球団初の3連覇となる9度目のリーグ優勝を地元・広島のファンに届けました。

私が注目している2位のヤクルトも、3位以下に5ゲーム以上の差をつけ2位通過が濃厚になっています。交流戦以降から続いている広島以外の5チームによる2位、3位争いは、ひとまずヤクルトが勝率5割の状態をしっかり保ち、現在は貯金を作って一歩抜け出しましたね。

クライマックスシリーズ進出争いにも注目

面白くなってきたのは3位争い。

阪神のチーム状況が悪く、順位を下げクライマックス出場に黄色信号が灯っている状態です。3位争いは巨人とDeNAになりそうです。今年、何回「団子状態」って言ったかな?(笑)こんなシーズンも珍しいですよね。

続いてパ・リーグです。

上位3チームと下位3チームのゲーム差もかなり開いて、クライマックスシリーズ出場チームはほぼ確定したように思います。

優勝争いですが、一時は首位西武と2位ソフトバンクのゲーム差が3.5にまで縮まりあわやと思ったものの、9月15日からメットライフドームで行われた天王山・第一ラウンドで西武がソフトバンクを3タテし、9月25日時点でゲーム差を6として優勝に向け逃げ切り体制に入りました。

いや〜、ソフトバンクにとって、柳田選手の一時離脱は痛かったですね。

走攻守と優れたこれまでの実績と、今シーズン離脱もなくここまで頑張ってきた中心選手ですから、最後まで出場してほしい気持ちは私にもありました。彼の離脱はソフトバンク首脳陣にとってももちろん苦渋の決断だったと思います。しかし、けがの部位が頭部だけに、大事を取ったに越したことはありません。

その後、脳振とう特別措置で出場選手登録を抹消されていましたが、23日の試合で8日ぶりにスタメン復帰。25日のオリックス戦で復帰後初めて猛打賞を記録しました。

柳田の今後の成長にも注目

この柳田選手、同じ広島出身同士でもあり、実は私が大注目している選手の1人です。彼のプレーを目の前で初めて見たのは、2011年の宮崎での教育リーグにて。

私も慕っているソフトバンクの藤本打撃コーチから当時、「広島出身でまだまだバッティングは荒いけど、外国人選手以上に打球を飛ばすヤツがいるぞ」と聞いたのが柳田選手でした。

実際に見てみると、私と同じ左打者。しかし練習でも、センターから逆方向に向け、右打者にも劣らぬ打球を放っていたんです。そのときに、ソフトバンクや日本野球界を引っ張っていく逸材だなと直感しましたが、やはりその通りでしたね。

一軍定着後は少しずついろいろな経験を積み、走攻守で荒さも消え、プレーもすっかり落ち着きました。あと5年間くらいは今年同等の成績を挙げられるでしょう。

というわけで、シーズンが終わるまでなにが起こるかわからないのがプロ野球。安易なことは言えませんが、パ・リーグに関してはこのまま西武が順調にマジックを減らしていくでしょう。

2位争いも面白く、ソフトバンクと日本ハムとのゲーム差が6.5と、本拠地でのクライマックスシリーズ開催権を懸け、この2チームの争いも最後まで目が離せません。

そして、私の古巣・楽天について。

残りゲームは少ないですが、最下位脱出を狙って頑張っています。また、若手をゲームに出場させ経験を積ませています。ひとつでも上の順位を狙って戦っていることに間違いはありません。

田中選手がイイですね! ようやく規定打席に到達し、1番打者としてチームを引っ張っています。彼には新人王の権利もあるので、けがなく最後までシーズンを駆け抜けてほしいと願っています。最近は内田選手、オコエ選手、山崎選手がスタメンに名を連ね奮闘中です。

経験も積まなければいけませんが、なにより一軍は結果がすべて。プロならば、結果にこだわることを決して、忘れてはいけませんからね!

そして後半では、恒例である、私の半生の振り返りの続きを参りましょう。

前回のコラムでは近鉄バファローズが、念願のリーグ優勝を果たしたところまででした。

2001年はリーグ優勝を経験し、個人的にも最高の成績を収めましたが、翌2002年は開幕からいきなり打撃不振に陥りました。

その1つの要因として、オープン戦終盤に自打球が右足を直撃し、その影響で蜂窩織炎(ほうかしきえん)を開幕直後に発症してしまった、ということがあります。

これ、めちゃくちゃ痛いんですよ(涙)。もしかしたら読者諸兄の中にも心当たりのある方がいらっしゃるかもしれませんが、あの、悪名高き通風に似た痛みです。発症したほうの右足を、地面に着けることができないほど!

前年、外野手のレギュラーとして定着し、この年も中心選手としての期待をされていた私は、チームの計らいで登録抹消はせずに、試合に欠場しながら通院での治療を受けることになりました。抗生物質の入った点滴を打つ毎日……春先は大変な目に遭ったと思い出します。

けが自体はひと月程度で完治したのですが、シーズンの入り口につまずくと、なかなか取り返すのがしんどくなってしまうんですよね……。

この年にしみじみ感じたのですが、プロ野球選手は下半身が命! いや、変な意味ではなくて(笑)!

100%の力で“走れない”ということは、プレーにもかなりの影響を及ぼすという基本の“き”を痛感しました。これ、プロ野球だけでなく、アスリート全般にも言えることだと思います。

2003年には選手会長に就任

チームはこの年2位でしたが、このように私自身にとっては不本意なシーズンでした。前年よりも成績をかなり落としてしまい、レギュラーとして非常に責任を感じる結果となりました。

翌2003年、前年を教訓にし、復活を懸けたシーズンで、私は選手会長に任命されました。2002年まで選手会長を務められた大塚晶文投手(当時)が、大リーグ挑戦のため自由契約となり近鉄を退団されたために、副会長であった私が選手会長を引き受ける羽目に(!)なったのです。

今だから言えますが、決して進んで引き受けた、と言うわけではないのです。もちろん名誉なことですよ! 誰もがなれるというポジションではないというのも、重々承知です。

しかし、選手会長というのは企業で言えば「部長」に当たります。その上のプロ野球選手会会長が社長みたいなイメージでしょうか。

球団と選手の間に入り、板挟みになることもありますし、選手会ミーティングなどでプライベートの時間を割かなければいけないことも多々あります。

だからといってお給料が上がるわけでもないので(笑)。まあそれは冗談としても、単に名誉なだけではない“おつり”が多い。くれぐれもここだけの話ですよ!(笑)

しかし、それも野球をより深く知るためのチャンスと前向きに受け止めることにして、前年の秋季キャンプやこの年の春キャンプと、しっかり身体を追い込み、もう一度しっかりとレギュラー定着を狙った年でした。
チームは3位という成績で、優勝はできませんでしたが、個人的には前年よりも満足できる成績を残したシーズンとなりました。

大きなけがも故障もなくシーズンを終えられるということは、やはりプロスポーツ選手にとってとても大事なことです。この年の満足度で改めて実感しました。

2004年に大事件が起こった

そして2004年。

私個人としても、そしてプロ野球界としても、今までに経験したことのなかったような世間をも巻き込んだ大事件が巻き起こるあのシーズンに突入します。

前年、ある程度の成績を残してレギュラーに返り咲き、チームとしてもう一度リーグ優勝するんだと臨んだ春のキャンプ初日のことでした。

球団名から「近鉄」を外して命名権(ネーミングライツ)を売買する、というマスコミ報道があったのです。

そのときは「それってなんのこと?」くらいに考えていました。案の定、その日のうちに球団代表から、これは球団の経営上の話であって、チームが特に変わるわけでもないから、選手はいつも通り練習してくれ、という説明があったのですから。

しかし今思えば、このときすでに、大船団の舵は切られた後でした。時系列で考えれば、水面下ではオリックスと近鉄の合併の準備が着々と進んでいたはずだったのです。

このお話の続きは次回のコラムでじっくりお伝えしましょう。