「ICHIGANトークショー」で語ったスペイン移籍の苦労 「年俸が安くて大変でした」

 誰しも一度は、夢を取るか、現実を取るかに頭を悩ませたことがあるだろう。

 プロサッカー選手の場合、それは理想のクラブや国でプレーする、あるいは慣れ親しんだ環境での安定したキャリアに置き換えられる。近年、日本代表MF井手口陽介(スペイン2部クルトゥラル・レオネサ)やMF堂安律(オランダ1部フローニンゲン)が若くして海を渡ったが、そこにはプレーや文化の違い以外にも苦労が少なくない。世界最高峰の一つであるスペインのリーガ・エスパニョーラで、史上初めてプレーした日本人選手となった城彰二氏も、夢を追い求めてスペイン移籍を決断した一人だ。

 現在、解説者や日本協会アンバサダーなど他方面で活躍する城氏は現役時代、1994年にJリーグ・ジェフユナイテッド市原(現・千葉)へ加入。デビュー戦から4試合連続ゴールを挙げるなど瞬く間に世間の注目を集め、96年アトランタ五輪、98年フランス・ワールドカップにも出場するなど日本を代表するストライカーとして名を馳せた。

 横浜マリノス(現・横浜FM)移籍から3年が経過した2000年、かつて師事したスペイン人監督のハビエル・アスカルゴルタ氏から大物代理人ジョゼップ・マリア・ミンゲージャ氏を紹介されたことがきっかけで、リーガ・エスパニョーラのバジャドリードへのレンタル移籍が決定。念願のスペイン挑戦を実現させたが、大きな決断を迫られたという。サンフレッチェ広島のアンバサダーを務める森崎浩司氏とともにゲスト出演した1月27日の「ICHIGANトークショー in TAU」で、当時の舞台裏を明かした。

「スペインリーグは年俸が安くて大変でした。今だから言えますが、マリノス時代は約2億円。でも、スペインでは労働基準法があるので、最低賃金の3500万円だったんです」

「リーガでプレーしてみたい気持ちが勝った」

 横浜マリノスに移籍した1997年から3年連続でシーズン二桁得点を記録し、98年にはリーグ2位の25ゴール、翌年にも同2位の18ゴールを挙げた城氏。当時日本トップクラスのストライカーも、異国の労働基準法により約6分の1という大幅な減額を受け入れなければならなかったという。それでも、24歳の青年は迷うことなく夢を選んだ。

「『これしかお前にやらない。それでも行くか』と訊かれました。でも、僕はスペインリーグが世界のトップだと思っていたし、とにかくリーガでプレーしてみたいという気持ちが勝りました。次の年、税金が大変でしたけどね(笑)」

 まだ日本人選手にとって海外挑戦が身近ではなかった時代、こうしてリーガ史上初の日本人プレーヤーが誕生した。

 その後、城氏は2000年1月16日のヌマンシア戦で途中出場してリーガデビューを飾り、2月27日のオビエド戦では2ゴールを挙げて日本人リーガ初得点もマーク。同年に横浜マリノスに復帰するまで、通算15試合2得点の成績を残した。

 現在、日本代表MF乾貴士(エイバル)やMF柴崎岳(ヘタフェ)らがリーガで活躍し、認められる存在となっているが、もし先駆者の城氏が18年前に異なる決断をしていたら――。スペイン挑戦を夢見る日本人選手たちの将来は、また違うシナリオになっていたかもしれない。

小田智史●文 text by Tomofumi Oda(Football ZONE web編集部)

フットボールゾーンウェブ編集部●写真 photo by Football ZONE web