なぜピクサーの会議には想像力があるのか
■ピクサーの命綱「ブレイントラスト」
『トイ・ストーリー』や『モンスターズ・インク』『カーズ』など、世界的なヒット・アニメ作品を作り続けている映像制作会社のピクサーには、「ブレイントラスト会議」と呼ばれる問題解決のしくみがある。
「ブレイントラスト」は、ブレイン集団と考えて差し支えない。アメリカのルーズベルト大統領がニューディール政策を実施した際、政策ブレインとなった学者たちを「ブレイントラスト」と呼んで以降、一般的にも使われるようになった言葉だ。
ピクサーのブレイントラストは、もっぱらストーリーテリングに関わるブレイン集団を指す。監督経験者やプロデューサー、脚本家、ストーリー責任者など、社内でストーリーに関わるクリエイターたちが数カ月ごとに一堂に会し、製作中の映画について率直な意見を交換するのだ。
ピクサーは、ブレイントラスト会議を繰り返すことによって、優れた作品を生み続けてきた。ピクサーの共同創設者であり、現在も社長を務めるエド・キャットムルは、著書『ピクサー流創造するちから』(ダイヤモンド社)のなかで、どんなピクサー映画も「つくり始めは目も当てられないほどの『駄作』」と語っている。『レミーのおいしいレストラン』に対して、「ネズミが料理をする映画なんて、一歩まちがえば人を不快にさせるだけ」とは言い得て妙だ。
そのつまらない駄作を、面白くするのがブレイントラストの仕事というのだから、ピクサーの命綱といっても言い過ぎではないだろう。実際、同書で描かれる具体的なブレイントラストのやりとりを読むと、映画が進化していく様子がよくわかる。
■発言しない理由はいくらでもある
読者のなかには「ブレストぐらい、うちの会社でもやってるよ」と思う人もいるかもしれないが、ピクサーの会議は単にアイデアを出すだけのブレストではなく、進行中の映画に対して「ここは不要だ」とか「この人物の感情が伝わってこない」といった、率直な批判や批評も求められる。ジブリで宮崎駿監督を前にして、ダメ出しの意見をするようなものだろう。
いかにピクサーといえども、豪胆な人間ばかりではあるまい。先に挙げた『ピクサー流創造するちから』のなかでも、ブレイントラストの会議に初めて参加する人間の心理が細かく描き出されている。
<初めて参加するブレイントラスト会議。熟練の優秀なメンバーが部屋を埋め尽くしている。先ほど上映された映像について議論するためだ。この状況で、発言に慎重になる理由はいくらでもあるだろう。礼を失したくない、相手の意見を尊重し、できれば従いたい、恥をかきたくない、知ったような口をききたくない>
これらは、前回(「議論を重ねても“よい結果”が出ない理由」http://president.jp/articles/-/22565)説明した熟議が成功しない理由とほぼ同じだ。話し合いに参加する人間が、めいめい空気を読み始めると、議論は誤った方向へ向かってしまう。
では、ピクサーはいかにして、熟議の難所を乗り越えてきたのだろうか。『ピクサー流創造するちから』を読むと、それはひとえに優れたリーダーやマネジャーにかかっていることを痛感する。
■テーブルひとつで会議は分断される
印象的なエピソードを紹介しよう。
ある時期まで、ピクサーの大会議室には長細い会議机があり、それを囲んで、定期的にミーティングを行っていた。エドは、その机がいつしか嫌いになったという。なぜか。
<30人が2列になって向き合い、それ以外の人が壁に沿って座ることも多かった。横に広がりすぎて話がしにくい。両端のほうの席に座った不運な出席者は、首を突き出さないと顔も見えず、話についていくこともままならなかった。それだけでなく、話し合っている映画の監督とプロデューサーが皆の意見を聞き漏らさないようにするには、どうしても2人を真ん中の席に座らせなければならない>
そのうち、社内で最も経験豊富な監督、プロデューサーたちが固まって座れるように、座席札までつくられるようになった。これでは立場に制限されない自由な議論など、できるはずもない。それに気づいたエドは、会社の施設管理部門にテーブルの入れ替えを頼んだ。
興味深いのは、その長細いテーブルが十年間も使われ続けた理由を考察するくだりだ。
<それは、席順や座席札が私を含むリーダーたちに都合のいいようにつくられていたからだ。すっかり全員ミーティングをやっているつもりになっており、自分たちが疎外感を感じていなかったため、何もおかしいと感じなかった。一方、中央に座れなかった人はそれで序列が決まることをかなりはっきりと感じていたが、それは我々、つまり上層部の意図でそうなったのだと解釈した。だから文句を言えるはずもなかった>
空間の設計ひとつでコミュニケーションは良くも悪くもなる。エドが、長テーブルの弊害に気づくことができたのは、常日頃から、創造的な議論を阻害する要因に敏感であり続けたからだろう。
■議論の成功はリーダーにかかっている
「忌憚のない意見を話そう」という掛け声だけでは、議論は成功しない。おそらくどんな組織にも、ピクサーの長テーブルのような慣習や因習があるに違いない。が、リーダーにとっては既存の空間が居心地よく感じられてしまう。
だとするならば、ごく当たり前の結論ではあるが、議論を成功させるかどうかは、直接的にはリーダーの手腕によるところが大きい。実際、『ピクサー流 創造するちから』や、前回参照した『賢い組織は「みんな」で決める』が描く優れたリーダー像には、多くの共通点を発見できる。
優れたリーダーの資質として、どちらも真っ先に挙げているのは、自分が知らないことを聞きたいという好奇心だ。
<成功するリーダーは、自分のやり方がまちがっていたり、不完全であるかもしれないという現実を受け入れている>(『ピクサー流創造するちから』)
<リーダーや社会的地位の高い人が集団の役に立つためにできるのは、共有されていない情報を聞きたいと発言し、聞こうとする意欲を示すことだ>(『賢い組織は「みんな」で決める』)
この連載で考えてきたことは、人がバイアスから逃れることの難しさだった。集団で議論をすると、リーダーや中心的人物の意見に同調する傾向は強い。会議でよくしゃべるのも、たいていエラい人たちだ。それを防ぐためには、リーダーが率先して、知らないことを認める必要があるという主張はうなずける。
批判的意見を歓迎するというのも、両著が共通して重要視しているポイントだ。知人の哲学者はとある対談で、学生が他人の発表に対して、肯定的な感想ばかり述べることに憤慨していた。「レジュメのコピーがズレてた」程度の感想でもいいから、おかしいと思ったこと、変だと思ったことを言ってほしい、と。
集団は放っておけば、同調圧力が強くなる。ならば、批判的意見が遠慮なく出るようになるまでには、リーダーはかなり積極的に異論・反論を歓迎する態度を発信する必要があるのだろう。
前回、今回と、一見、哲学とは関係のない話のように思うかもしれないが、そうではない。批判的思考こそは、哲学が最も得意とするものだ。そこで次回は、日本でも近年少しずつ活動の場を広げている「哲学対話」というものを紹介してみたい。
(編集者・ライター 斎藤 哲也)