純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

写真拡大

ユダヤ教イエス系諸派

 歴史は曲げられる。いきなりローマで「キリスト教徒」が弾圧された、かのように語られるが、これはウソ。というのも、当時、イエスの名を掲げる集団はいくつもあったが、いずれもまだ「キリスト教」ではなかったからだ。

 もとよりローマは多種多様な文化と宗教の寄せ集め。辺境のユダヤ教も、洗礼者ヨハネやイエスの登場の前から、正統派(伝統サドカイ派・厳格パリサイ派)のほかに、他国の影響を受けた分派がさまざまに蠢いていた。イエス系諸派も、そのようなユダヤ教分派の一つで、その中でもさらに使徒派やパウロ派など、様々な小分派が執拗な本家争いを繰り広げ続けていた。

 大きな問題は、初期のイエス系諸派(「原始キリスト教」)がいずれも、あくまでユダヤ教のヴァリエーションにすぎず、古いユダヤ教の独善的な選民思想と厳格主義の尾を引きずっていたこと。当時のローマは、偽りの「寛容」によって、かろうじて多文化共存の平穏を保っていたにすぎない。にもかかわらず、そこに突然に現れたイエス系諸派は、ローマの人々の堕落と妥協の欺瞞を公然と攻撃的に批判し、白か黒かの徹底的な「回心」を迫った。歴代の皇帝がイエス系諸派を虐待殺害したのは、彼らから批判の俎上に上げられた他の多くのローマ市民の大きな支持があればこそ。当時、すでに皇帝権はかなり不安定になっており、むしろ人気取りのためにやった、という面の方が強い。

 しかし、あまりに巨大すぎるローマ帝国の瓦解は留めようがない。寄せ集めの諸族諸教の分裂対立の危機に、皇帝はみずからを神格化して国家宗教的な統一を図ろうと模索するが、弾圧されてきたイエス系諸派がさらにエキサイトして皇帝を非難。これでむしろ、諸族諸民の方も、皇帝の国家宗教の茶番よりイエス系諸派を支持するようになってしまう。この中央の状況に、地方でかってに皇帝や将軍が乱立。地方政権への求心力をつけようと、むしろ異教徒の流入を黙認、公認するようになってしまい、より混迷は深まる。


三位一体のキリスト教へ

 200年ころ、北アフリカチュニジア市出の変わった教父テルトゥリアヌスが、イエスこそ神、というパウロの教えを推し進め、三位一体(さんみいったい)を主張し始めた。すなわち、父なる神(創造主)、子なる神(イエス)、聖霊なる神(無私の善意)は、三つの位格(ペルソナ)にして、同一の本体である、などと強引なことを言い出す。ようするに、ユダヤ教とパウロ教とイエス教をくっつけてしまった。当然、当時、彼は「異端」とされたが、その後、しだいに理解を集めるようになる。

 テルトゥリアヌスのすごいのは、ユダヤ教の天地創造神話から、アダムとイヴの「知恵の実」を食べたことに発する人類すべての「原罪」を強調することで、このわけのわからない三位一体を、「不合理ゆえに我信ず」で、みなに納得させてしまったところ。どうせ人間はバカなんだから、ごちゃごちゃ言わずに、黙ってまとめて三つとも信じろ、これらはほんとは一つなんだ、と押し切った。

 むちゃくちゃな話だが、これで、ああだ、こうだ、と互いに内部で言い争っていたイエス系諸派がようやくまとまっていく。ユダヤ教的な尊大な選民思想と厳格主義を抑え込み、神の下での愚直・寛容・奉仕を主軸にする「キリスト教」になっていく。


ローマ教会帝国

 313年には皇帝みずからが、混乱するローマ市を放棄してしまい、東の現トルコ、コンスタンティノープル市へ遷都。おりしも375年、東北からゲルマン人諸族がヨーロッパに大量南下。ローマの中にも入り込んできた。そして、400年ころ、テルトゥリアヌスと同じ北アフリカからアウグスティヌスが出てきて、この世は終わりだ、最後の審判に備えて「教会」に入れ、という終末論を訴える。当時の政治と社会の実情からすれば、この終末論はリアリティがあった。

 当時、ローマ神父長(パトリアルケース)は、イェルサレム、コンスタンティノープル、アンティオキア、アレキサンドリアと並ぶ五地方の一つの神父長に過ぎなかった。しかし、ローマ帝国のローマ市放棄の後、ローマ教会は、旧ローマ帝国全域各市に教会組織を拡げ、他の地方の神父長たちを押しのけて「カトリック(普遍)」を強く称するようになり、西ヨーロッパにおいて戸籍、徴税、工事、防衛、福祉、裁判まで、世俗的な行政を兼務する政教一致の「ヒエラルキア(神聖管理)」を行うようになる。

 そして、440年のレオ1世に至って、ローマこそが使徒長ペテロの殉教地であり、ローマ神父長のみがイエスやペテロから天国の鍵権を代々継承している、つまり、ただの地方教会の長ではなく、現世の「キリスト代理人(ウィカリウス・クリスティ)」だ、と言い出し、「教皇(パーパ、the神父)」を名乗るようになった。これは、ローマ神父長が、各地の諸王諸侯の権威を凌ぎ、彼らの上に乗って、彼らの公認権を持つ世俗皇帝をも兼務することを意味する。

 一般庶民についても、自分で勝手に考えることが恐ろしい「罪」とされ、愚直・寛容・奉仕を理想として、ひたすらローマ教皇庁から順に下されてくる指示命令に従った。しかし、そのためには、定期集会の場しての建物の「教会」が必要であり、ローマ教皇庁から下されるラテン語の回勅を読んで説ける神父がそこに常駐し、人々は、ことあるごとにすべて神父にお伺いを立てなければならない。かくして、町や村は建物としての教会を中心に城壁で囲まれたものとなり、遠くから移動を続けてきたゲルマン人たちは、その中に集定住することになる。その外の森は、もはや山賊とオオカミと異端の魔女に呪われた領域であり、精神的にも、空間的にも、「教会の外に救い無し」とされた。

PR 純丘曜彰の新刊!『百日一考(第一集)』


現代と中世

 細かなことを言えばいろいろあるが、十字軍の始まる1095年まで、このローマ・カトリック教会の支配の下、およそ七百年にわたって、西ヨーロッパは凡庸な平和を享受することになる。それは、恐ろしいほどの停滞社会であり、後世に「暗黒時代」とも呼ばれるが、しかし、世俗歌などにみられるように、その中でも人々はそれぞれの身上の伝統的な生活を謳歌していた。

 これは日本の江戸時代と、とてもよく似ている。もちろん世の中には、自由で変化に富んだ社会が好きだ、そうでなければ、それは弾圧された監獄だ、という人もいるだろうが、しかし、他方には、安定と平穏を好む人々もいる。どちらが幸福か、など、かんたんには決められまい。

 「暗黒時代」の凡庸な平和が破られて以来、そこから飛び出してきた欧米人によって、世界全体が、この数百年、怒濤の混乱に巻き込まれた。そしていま、欧米は、欧米化した中東・アフリカ・中国・インドから流出する人と物の洪水に苦しめられている。ここにあって、日本は、どっちつかずに、その波間に漂っている。

 世界は、大きな文明の流れで捉えないといけない。にもかかわらず、個々の人々は、自分の狭隘な世界観のみに基づいて他者を裁き、神のように叫ぶ。しかし、それは、むしろ古い独善的な選民思想や厳格主義に回帰してしまっている考え方であり、かえって多くの人々を敵にまわし、かならず虐待殺害のしっぺ返しを引き起こす。

 宗教支配、一党独裁の是非はともかく、全知全能の神に比すれば、人間は不完全。にもかかわらず、思い上がる。言い争って、他の人々まで揉めごとに巻き込もうとする喧噪だらけの世の中より、欺瞞でも愚直・寛容・奉仕で停滞していた中世の「暗黒時代」の方が、どれだけましだったことか、それはそれで、冷静に考えてみよう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近書に『アマテラスの黄金』などがある。)

PR 純丘曜彰の新刊!『百日一考(第一集)』