純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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 黒でも白と言いくるめる。いまの腐れ弁護士みたいなのが紀元前五世紀の古代ギリシアに現れた。ソフィスト(知恵者)だ。かれらは、個別案件で勝った負けたを争う弁護士より壮大。政治家たちに入れ知恵するのが仕事。当時すでに政治そのものが腐敗していた。とにかく相手を言い負かし、民衆を言いくるめてしまえば勝ち。そのとき言い勝つことだけが目的だから、その考え方を実際に実行し実現たらどうなるか、など知ったことではない。

 ソフィストの代表が、プロタゴラス。人間は万物の尺度、つまり相対主義を信奉していた。つまり、ある人がAだと言っても、それはあなたにとっての真理にすぎない、と言って叩き潰す。辛いものの後は水さえも甘いように、いまたまたまみんなもAだと思ってしまうだけだ、と言って煙に巻く。

 日本の戦後もそうだった。戦前のこっぴどい封建社会の後、もっともらしい「革新」ソフィストたちが湧き出てきて、国家、地域、家族、夫婦まで、なんでもかんでも相対主義でぶっ壊してしまった。なにもかもが個人の自由な契約関係。嫌ならいつ止めてもいい。いや、そもそもいつどこでも「因習」なんかに従う義務は無い、そういうものを自分に押しつけるやつらは、社会の敵だ! と。

 もちろん民主主義は、ただの多数決ではなく、少数派にも配慮し、かれらを包含すべきものだが、エセ「革新」ソフィストたちは、この規定を逆手に取って、戦前の統制礼賛のキズをスネに持つ新聞などを足場に、少数派の意見を強烈にアピール。それどころか、ポルポト派よろしく、少数派以外の人々にまで、古い「偏見」に「反省」と「回心」を迫り、従わない者たちを「虐殺」していった。男の子も赤い服を着るべきだ、に始まって、結婚は不要だ、出産はムダだ、家族や社会より自分個人、PTAはいらない、自治会をぶっ壊せ、等々。

 少数派がどうしようと知ったことではない。ところが、少数派は、多数派を切り崩し、結局のところ、自分たちの方が多数派になって旧多数派を壊滅しようとする。多数派に対して、自分たちの考えを認めろ、と言いながら、絶対に多数派の考えは許さない。連中は、根幹のところで自己矛盾している。「サイレント・マジョリティ(沈黙の多数派)」に対して、こういう連中を「ドミナント・マイノリティ(支配的少数派)」という。

 古代のギリシアも、こういうデマゴーグ(扇動家)のデモ、ドミナント・マイノリティの詭弁に引っかき回されて、ぐちゃぐちゃになった。しかし、そんなところに、かの哲人ソクラテスが出てきた。それでほんとうにきみは納得できるのかい? 理屈はともかく自分自身の心の声(ダイモニオン)を聞いてごらんよ、と。

 人は自分自身にさえ屁理屈を言って自分をごまかし、その後ろめたさに他人までむりやり同調させようとする。でも、一人になったとき、テレビも消してちょっとぼーっとしたとき、心静かにフロかトイレに入っているとき、布団に入って暗い部屋で天井を見上げるとき、ほんとうの自分の声が聞こえてくる。このままじゃダメだよな、やっぱりずっと一人ぼっちじゃさみしいよな、いまはいいけれど、この先どうなるのだろう、と。

 人は理屈で生きているわけじゃない。理不尽でもなんでも、どんな人も、それぞれに育ってきた、懐かしい、自分のくつろげる環境がある。社会も、ある日突然に人工的に創られたのではなく、過去の歴史的ないきさつ、わだかまり、その中での後悔と決意があって、いまがある。理屈はどうあれ、こういうものを引きずって我々は生きている。ああすべきだ、こうすべきだ、と、もっともらしくソフィストたちに言われても、そう簡単に自分自身の生きてきた足下を切り捨てることなどできない。いや、切り捨ててしまったら、もう自分自身でいることすらできなくなってしまう。

 理屈では、どんな尺度でもいいかもしれない。だが、自分が自分である限り、自分であることの証としての自分の絶対尺度がある。たとえそれで自分が犠牲になったり、損をしたりするとしても、自分が自分であるために守り通すべき尺度がある。それを自分勝手な屁理屈で、それどころか他人の自分勝手な屁理屈で曲げたりたら、そんな自分はもうほんとうの自分ではいられなくなる。

 自分自身の心の中の声は、恐ろしい。なんでもお見通しだ。自分自身から自分自身を隠しごまかすことなどできないのだ。だから、うしろめたい人々は、せめて自分の心の声を聞くまいと、パチンコ屋だの、クラブだの、都会の喧噪で耳を塞ぎ、まやかしの娯楽にうつつを抜かす。もしくは、詭弁をまき散らすドミナント・マイノリティのソフィストの御講演にうなずき、そのデモに一緒に参加して、他人の作ったシュプレッヒコールを大声で連呼し、先進的な理解者を気取る。だが、それは、自分自身の心の声から耳を塞いでいるだけ。

 だが、そんなことをしたって、絶対に自分自身からは逃げられない。勝ちか負けか、損か得か、多数か少数か。そんなことは、関係ない。これまできみ自身が生きてきたところ、そして、きみ、きみの家族、きみの地域に思うところ。それがどうあってほしいかを真剣に考えるとき、いま一時の屁理屈とほんとうにつながっているのか、疑わざるをえない。そして、その疑いこそが、哲学だ。

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 正義は損得じゃない。真理は勝ち負けじゃない。少数派の変わり者がなんと言っていようと、それはそれ。それこそ、人は人。やつらは、自分たちの権益拡大のために、きみまで洗脳しようとしているが、きみはきみの中の心の声だけを真剣に心配しよう。そして、損得勝ち負けを超えて、その自分自身の心の声にこそ正直に生きよう。それこそが、きみがきみである証なのだから。

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近書に『アマテラスの黄金』などがある。)

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