ジャンク情報がバカを拗らせる(再)/純丘曜彰 教授博士
ラーメンをすすり、焼き肉にがっつき、ジャンクフードをばりばりやってたら、人は強くなるだろうか。体力をつけるのに、たしかに栄養は必要だが、むだに余分な「栄養」ばかり摂っていても、かえって体に悪いだけ。そんなことは、だれでもわかっている。ところが、勉強となると、大量の情報さえ吸収していればいい、と勘違いしているやつが少なくない。いくら雑学、雑知識が溢れていても、バカはやっぱりバカのままだよ。それどころか、よけい拗れて、救えなくなる。
勉強のキモは、自分自身の心を磨くこと。むしろどうでもいい迷妄を振り捨て、精神を筋肉質にシェイプアップすること。ボディビルと同様のマインドビル。心にしっかりとした背骨があれば、ムダな情報、余計な変化に振り回されて右往左往したりしなくて済むようになる。とにかくただ量的に知識を増やそうとする諸科学に対して、哲学の方が根本だ、とされるのも、こういう理由。
知識は、自分を作る勉強のための気づきのきっかけにすぎない。知って気づいたことが身にならなければ、学んだことにはならない。修練とか、修業とかいうと、かつての戦争や宗教のせいなのか、昨今の日本では、なにか高圧的、妄信的な印象だが、どんな知も、学んで修めないと、智にはならない。やたらムダに大飯喰いをしただけでは体力にならないのと同じこと。
とはいえ、現代は、自己肯定感が強い。いや、むしろ逆に、自己肯定感が危機的なのかもしれない。おまえ、そのままじゃダメだよ、なんて、口に出して人に言われてしまうと、激昂して逆切れする。それって、大量のラーメンを食べて、大量の栄養を取っているから大丈夫なんだ、オレはまちがいなく健康だ、と、言い張るようなもの。底辺連中の妙ちくりんなプリクラ写真のように、若いくせに早くも、こんな自分が大好き、とってもかわいい、ずっとこのままでいい、と自分に酔ってしまっているやつには、もう伸びシロが無い。あとは、そうして酔っ払ったまま、気持ちよく、今よりさらに下へ下へ、ただ墜ちていくだけ。
心の「体型」は、顔に出る。目に出る。健全な心の人は、目が輝いている。顔つきが引き締まり、胸を張り、あごを上げて、しっかりと前を見据えている。一方、心が死んでしまっている人は、死んだ魚の目をしている。猫背で、落ち着きが無く、やたら饒舌なわりに、口角が下がり、不平と不満、ウソと自慢しか出てこない。ほら、君も鏡を見てごらん。いくら髪の毛を染めたって、カラコンを使ったって、目つき、目の動きはごまかしようもない。
ベートーヴェンは、絶大な評価と人気を得て、交響曲をいくつも書き、その九つ目の第四楽章に至ってなお、自分の書くべきはこんな音じゃない、と自分を全否定し、その向こう側へと乗り越えて行った。ただ、こんな未熟な自分は、まだ自分じゃない、もっとりっぱな、もっとしっかりした自分になれるはずだ、と、いまの自分を否定できるやつだけが、前に進み、上に登れる。
でも、前に進み、上に登って何がある? 今を楽しまなくて、何が楽しい? そうそう。たしかに、それはそうかも知らんねぇ。だけど、いまの自分に納得できずにリストカットを繰り返し、ダメ仲間同士で傷をなめ合い、他人のフリのコスプレに明け暮れてムダに時を過ごし、人が唯一注目してくれていた若ささえも失って、ただ老いさらばえていくくらいなら、苦しい思いをしながらも、一歩、一歩、山を登っている方が、生きていることも実感でき、世間の展望も開けて、自分が進むべき方向も見えてくるものだよ。
他人や世間のあれこれを知って、うらやんでも、けなしても、自分の腹の足しになるわけじゃない。不平不満ばかり言っていても、それで世の中が君の機嫌を取ってくれるわけじゃない。今が嫌でも、昔に戻れるわけじゃない。この自分は、これからどうしたらいいのか。生きて、この世で何ができるのか。就職も、結婚も、仕事も、子育ても、そして、老いるのも、病むのも、すべてが勉強。うまくいかない自分の方を否定して、問題に気づき、新しい自分自身を作り上げていくことでしか、それを乗り越えて行く道は無い。
(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近書に『アマテラスの黄金』などがある。)