尽誠学園を追って英明、寒川という構図に古豪高松商の復活で、新たな動き(香川県)

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 今回から始まったスポーツライター・手束 仁氏による連載コラム「47都道府県 高校野球勢力図の変化」は、ここ最近の各都道府県の古豪や新鋭校などを紹介し、新たな高校野球の勢力図を解説する特別コラムです!これから、高校野球ドットコムでは、47都道府県の記事を配信していきますが、記念すべき第1回は、先月開催された神宮大会で優勝した高松商の在る「香川県」です!(第2回以降は毎週日曜日配信でお届けします)

 現在のセンバツ高校野球の前身で1924(大正13)年4月1日に始まった第1回選抜中等学校野球大会を制したのは高松商だった。この年の夏、松山で行われた四国大会では敗退するが、その帰途で当時の志摩 定一三塁手が倒れ他界する。彼は死の間際「俺は死んでも魂が高松商の三塁を守る」の言葉を残した。

勢力図の中心は高松商から

明治神宮大会で優勝を果たした高松商

 以来、高松商は試合の際に最初に守りに着くときに三塁ベースに集合して円陣を組み、三塁手が清め水をベースに吹き付ける儀式が定着した。これは“志摩供養”と言われ、甲子園に出場した際にも行われていたが、「宗教的な感じがする」などの理由で中止となった。

 このことでもわかるように、高松商は古い歴史を背負っている。学校は明治年間に香川商として創立され、その後に高松商となる。もちろん野球部も輝かしい歴史と伝統があり、OBも古くは宮武 三郎、水原 茂など並み居る偉人が多い。

 ただ、このところは低迷気味で、平成に入ってからは春に2度、夏は1度のみの甲子園出場しかなく、オールドファンにとってはやや寂しい結果となっていた。それが、2015年のこの秋、四国大会を制し、来春のセンバツ出場をほぼ確実にした。また、明治神宮大会も優勝して、改めて「古豪高松商復活」をアピールした。水原 茂以前から慶應義塾大へのルートも強く、野球以外の付加価値という点でも、伝統校としての重みはさらに大きい。

 また、野球ということに関しても特に戦前から続いた“四国4商”の中でも歴史の重さは一番といえる存在である。それは、ストッキングにも伝えられており、白が夏の優勝、赤が春の優勝を表すラインで2本ずつ入っており、黄色の1本ラインが国体の優勝を表している。

 その高松商のライバルとして存在していたのが高松一だ。本来ならば、伝統の商業校に対しては、旧制中学系の名門校という図式があって、それでいくと高松中が前身である高松高ということになるはずである。その高松は05年春に21世紀枠代表で1934(昭和9)年以来の甲子園出場を果たしている。また、市立の高松一は1949(昭和24)年に1年生の怪童中西 太が三塁を守って甲子園に出場。中西が3年生となった51年夏にはベスト4に進出して、香川は高松商だけではないということを強烈にアピールした。

[page_break:尽誠学園や伝統校だけじゃない。英明などの新興勢力がぞくぞく台頭]尽誠学園や伝統校だけじゃない。英明などの新興勢力がぞくぞく台頭

すっかり定着した「尽誠」のユニフォーム

 時代の流れの中で、伝統校がもう一つ伸び悩み出した80年代後半になって、俄然元気がよくなってきたのが尽誠学園だ。香川といえば尽誠学園というくらいに「尽」マークの帽子と胸に力強く「尽誠」の文字のユニホームはすっかり全国のファンに定着した。

 最初に甲子園に登場したのは1983(昭和58)年だった。学校の歴史は古く、前身の忠誠塾は明治に出来ている。野球部が本格的に強くなったのは大河 賢二郎監督が就任してからだ。

 一躍有名になったのは、伊良部 秀輝(ロッテ→MLB→阪神)がエースとして登場し、鈴木 健ら率いる浦和学院を倒したときからだ。その球のスピードもさることながら、体も大きいが態度もデカイということで話題になった。

 当時、尽誠学園はきかん坊が多いという評判でもあり、伝統校として人気のある高松商などとは対極的な存在にもなっていた。それでも、谷 佳知が三番にいた89年と、92年とベスト4に残ることによって、「尽誠学園強し」を印象づけた。大阪出身の選手も多く一見、野球留学というイメージだが、考えようによっては海を挟んでいるとはいえ、隣県からきているだけのことでもあった。

 尽誠学園の台頭で明らかに香川県の勢力地図に異変が起きたが、高松商、高松一以外の伝統校も間隙を縫って頑張っていた。古くから対抗意識が高く丸亀の早慶戦といわれた丸亀と丸亀商もそうだ。00年には丸亀は春夏連続して甲子園に出場して健在ぶりを示した。丸亀商は普通科の設置で校名が丸亀城西となったものの、伝統は引き継がれている。

 商業校の普通科設置による校名変更としては、志度商が志度高に、観音寺商が観音寺中央となっている。観音寺中央は1995(平成7)年に久保 尚志投手(中央大→鷺宮製作所)を擁して春の初出場初優勝は鮮やかだった。さらに、プレッシャーの中、夏も甲子園に登場したのは立派だった。しかも、宇都宮学園(現文星芸大附)を倒し、春の優勝がフロックではなかったということをアピールしている。

 四国4県の中では、観音寺中央の活躍以来、やや元気のない香川県勢ではあるが、05年春には、91年に尽誠学園と坂出商が同時出場した以来の2校選出。しかも一つは21世紀枠で72年ぶりに代表権を得た高松だった。折りしも前年のドラフトでは同校出身の松家 昇が東京大からドラフト指名を受けて横浜入りしていただけに、高松関係者としては、久々に嬉しい野球ニュースの連続だった。当時存在した希望枠で選出された三本松とともに、新しい香川県野球に息吹を吹き込む存在となった。

 そんな勢力構図だった香川県だが、03年夏に香川西が出場し、09年夏には藤井学園寒川が初出場、翌年には英明が続いて、香川県にも尽誠学園以外の新しい私学勢力が一気に台頭してきた。こうして、勢力構図が大きく変わろうとして来ていた中で、高松商の復活は、14年夏の坂出商の復活とともに、また新たな刺激となっていくのではないだろうか。

(文:手束 仁)

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