(C)森本高史

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インタビュー第一回第二回第三回

――私のような普通の人間だと、1チームでさえまず満足に務まらないと思うのですが、森本さんは2012年1月からさらに「フィリピンサッカー協会テクニカル・アドバイザー」という肩書きを得ました。

森本 初めて行った海外が、1995年のオーストラリアのホームステイでした。2番目に行った国が、フィリピンだったのです。オーストラリアで知り合った学生がフィリピン系だったので、「それなら今度行くよ」といって彼の親戚の家に泊めてもらって。

 これまで世界60カ国を訪問して、FIFA総会とかAFC年間表彰式とかいろんなイベントに出席しました。今でこそそういうことが当たり前の生活になりましたが、人生で初めて訪問したサッカー協会はフィリピンサッカー協会でした。

 当時のフィリピンはサッカーは盛んではなかったけど、友人に電話してアポイントを取ってもらって。高校3年生の春で、ただ単にフィリピンのサッカーがどうなっているか聞きたかった。だけど、フィリピンサッカー協会は総出で僕を迎えてくれたんです。

 当時の幹部の部屋にも行って、いろんなことを教えてもらいました。わがままを言って「代表チームのリストをください」とお願いしたら即座にプリントアウトしてくれたし、協会のピンバッジももらえました。「ああ、この人たちは親切だ」と。

 1999年にシドニー五輪一次予選があって、日本・香港・ネパール・フィリピン・マレーシアという組み合わせでした。当時の日本はフィリップ・トルシエ監督の下で中村俊輔、高原直泰がいたチームで、フィリピンはすごく弱かった。1分け7敗ぐらいでした。

 しかも小野伸二をケガさせてしまったことで、当時のフィリピンサッカーに対するイメージは非常に悪くなってしまったんです。だけど僕はその試合後、フィリピンのホテルに行って代表選手からユニフォームをもらったんです。そのことに、すごく感動して。

――なるほど。

森本 その後はなかなかフィリピンサッカーへの接点がなく人生を過ごしていたんですが、去年2月にAFCチャレンジカップという途上国のアジアチャンピオンを決める大会の予選があって、フィリピンとモンゴルが対戦したんです。

 フィリピンはモンゴルとホーム&アウエーで対戦したんですが、フィリピンのホームの試合に行った時、1996年に会ったフィリピンサッカー協会の人、1999年にユニフォームをくれた選手と再会できました。

 当時と体制は変わっているんだけど、同じフィリピンに変わりはない。僕も1996年と1999年のフィリピン代表を話せる人間だから気が合って、向こうも「この日本人は他とは違う」ということになって。「フィリピンが今後レベルアップしていくためには、君の経験が必要だ」と言われた。僕の経験なんて大したことはないけど、必要だと言われれば断れません。それで、引き受けたんです。

 フィリピンはこれまでバスケットボールが盛んな国で、サッカーはそこまで人気ではなかった。だけど2010年12月のスズキカップ・東南アジア選手権でベスト4に行った。最初はテレビの視聴率も200人ぐらいで、しかもESPNの、シンガポールでの放送がたまたま電波が入って視聴できた人しか見ていなかった。

――それもすごい話ですね(笑)。

森本 だけど勝ち進んで、準決勝に行く頃には何百万人、何千万人という視聴者数に膨れ上がったんです。その大会で勝ったことで、ワーッと盛り上がったんです。フィリピン代表の愛称は「アスカルズ」といって、ブームになっているんですよ(※編集部注:フィリピンのオンライン・コミュニティで募集した名前から付いた愛称。フィリピンの青色(アズール)と、アスカルというフィリピンの混血犬をかけ合わせたもの)。

 さらに発展していく上で、世界につながっていかなくてはいけない。それで僕に声がかかったのだと思います。僕も1999年頃から「フィリピンサッカーのために何かしたい」と思っていました。忙しい中僕を部屋まで呼んでくれてピンバッジをくれた、これはピンバッジを返せばいいってものではない。恩は恩で返すしかないなと。

 いま、その担当者の方がご存命かもわかりません。当時でもかなりお年を召していたので。ただ、その人の意思は残っているはずだから、オファー受けたときに「受けません」とは言えませんでした。むしろ、ぜひ協力させてくださいと。

――なるほど。

森本 初仕事として、不在だったU-21代表監督にセルビア人のゾラン・ジョルジェビッチを招へいしました。中東で30年の指導経験がある、イビチャ・オシム監督が指導していた頃の旧ユーゴスラビアのスタッフです。

 1990年のイタリア・ワールドカップで旧ユーゴはベスト8まで行ったわけですが、グループリーグ初戦の西ドイツ戦では1-4で敗れています。続く試合がUAE戦で、UAEのスカウティングをしたのがジョルジェビッチでした。当時、1月のガルフカップに視察に行こうとしたら「敵チームのスタッフを入国させない」とビザが下りなかったのですが、王族に交渉して特別に視察の許可を得たんです。

 旧ユーゴスラビアはUAEを5-1で下し、そのまま勢いに乗ってベスト8まで進出しました。もしジョルジェビッチのスカウティングがなかったら、あそこで敗退していたかもしれません。ピクシーのスペイン相手の2ゴールもないし、彼が日本に来ることもなかったかもしれない。そこで負けたオシム監督も「無能」のレッテルを張られ、日本に来ることもなかったかもしれない。旧ユーゴの躍進を、陰で支えたのがジョルジェビッチだったんです。

――間接的には、日本の大恩人でもあるんですね。

森本 ジョルジェビッチにはその後、デレン墨田最初の監督であるダボール・ベルベルを紹介してもらっています。デレン墨田もその後セルビア人の監督が来て軌道に乗っているけど、道筋を作ってくれたのはジョルジェビッチだったんですよ。

 ジョルジェビッチは当時フリーだったので、「若いやつを鍛えて強くしたい」とオファーを出したら「行く」と即答してくれました。日本みたいに「検討します」とは言わず、即答。何かの縁を感じますね。フィリピン、ジョルジェビッチ、僕という三者がつながった。

――デレン墨田もフィリピンも、話だけを聞いたら突拍子もないことかと思いきや、昔から続いてることが花開いた形なんですね。

森本 ただ、フィリピンU-21代表はブルネイで行なわれたハッサナル・ボルキア・トロフィー(HBT)に参加して初戦のミャンマーに2-8、2戦目のラオスに1-3で敗れるなど4戦4敗でグループリーグ敗退に終わりました。

 もちろん、責任はジョルジェビッチにある。サッカーは監督がすべてだから。だけど1月に就任したばかりで時間がなかったし、彼を推薦したのは僕です。これからフィリピンサッカー協会と話をするけど、きっとものすごいバトルになるでしょう。

――ああ、まさに進行形の話なんですよね。

森本 これがサッカーだと思うので。フィリピンサッカー協会も国民の期待が凄いので。フィリピンは東南アジアのミャンマー、ラオス、シンガポール、インドネシアに4戦4敗、得点4失点16。この結果にハッピーになる人は誰もいないし、次に勝てばいい問題でもない。プロなので、責任問題です。

――掲載時点で、ジョルジェビッチ氏が現職から離れている可能性もあるわけですね。

森本 否定はできません。本人が辞任することもあるだろうし、フィリピンサッカー協会が「こいつではダメだ」と思うかもしれない。なんせ4戦4敗だから何も言えない。たとえ準備が1カ月だろうが何だろうが、負けは負け。ひょっとしたら、今「森本高史をクビにしろ」という話になっているかもしれません。勝てば官軍、負ければ賊軍。それがサッカーの世界です。


第五回へ続く

森本高史(もりもと・たかし)
1978年10月東京都生まれ。東欧やアフリカ、中東といった地域に強いフットボールジャーナリスト。語学堪能で、英語、フランス語のみならず、スペイン語やポルトガル語、ドイツ語も操る。2009年11月、モンゴルでFCデレン墨田を立ち上げU-13、U-10のカテゴリーで選手育成に力を注ぐと共に、モンゴルの慢性的問題である貧困解決や子供の教育問題にも貢献することを目指して活動中。2012年1月、フィリピンサッカー協会テクニカル・コンサルタントに就任。
●Twitter:http://twitter.com/#!/derensumida2009
●デレン墨田公式ブログ:http://fcderensumida.blog.fc2.com/