日本代表の岡崎選手が所属するシュツットガルトは、前節のホームゲームでフライブルグに4対1と大勝して8位に浮上しましたが、同チームの攻撃の両翼を担う岡崎選手とハルニク選手が共に得点を決め、高評価を受けました。

これで、この二人は3戦連続して揃って得点を重ねたことになり、日本のスポーツ紙の野球の見出し風に表現すれば、「OH砲 3戦連続アベック弾!!」ということになります。つまらない冗談はお許し頂くとして、とりわけ同僚のハルニク選手は4試合連続で7ゴールと大暴れ。通算13得点となり、得点王争いでも一気に6位まで順位を上げてきました。

ドイツ・ブンデスリーガの名門クラブで、2人もの日本人選手が先発出場して共に活躍することは、奥寺選手の時代からブンデスリーガに注目してきた私のようなオジサンにとっては夢のような出来事ですが、ことシュツットガルトに関して言えば、ハルニク選手の奮闘も大変に喜ばしい出来事であります。何故なら、同選手とは5年来の知己で、とりわけヴェルダー・ブレーメン在籍中の不遇をよく知っているからです。
ハルニク選手とは、私が2007年の秋に鍼灸トレーナーのKさんとヴェルダー・ブレーメンを訪れた時が初対面でしたが、当時のハルニク選手はFIFA U-20ワールドカップでベスト4に入ったオーストリア代表の主力として活躍し、フル代表でも韋駄天の若手有望株として注目され始めていた時でした。しかし、スターのオーラを発するというよりは、気さくな田舎のアンちゃん風といった感じで、毛色の違う東洋からの訪問者にも敬意を表してくれる好漢だったのです。また、当時の彼はオーストリア代表の一員としてオシム・ジャパンと対戦した直後であったこともあり、どことなく我々に親しみを感じていてくれたのかも知れません。その日本代表との試合では、後半30分にピッチに送り出されたものの、直後に足首を捻挫してしまい、僅か10分足らずでピッチを去らなければならなかったのですが、その治療のために毎日Kさんの診療を受けていたのです。

その時の会話で最も印象に残っているのは、「中村俊輔選手は凄いよ!上手いなんてもんじゃない!!」と手放しで褒めていたことです。W杯など夢の夢、当時アマチュアの大会であった五輪にすら出られないような日本代表の冬の時代を体験しているオジサンとしては、欧州の一中堅国の代表選手とは言え、日本人選手を絶賛する時代がやってきたのかと感慨に浸ったものです。

また、その翌年にフットボールに理解を示す日本の大企業の幹部候補社員の方とヴェルダー・ブレーメンを表敬訪問し、トップチームの練習を見学した時のことです。ハルニク選手が練習終了後に私の姿を見つけて笑顔で近寄ってくるなり、「この人は新しい鍼灸のトレーナーなの?」と尋ねるではありませんか。これには思わず同行の方と苦笑いをしてしまいましたが、何しろ人懐こい愛すべきキャラクターというのが私のハルニク選手に対する印象です。

ドイツ人の母親とオーストリア人の父親を持つハルニク選手はドイツのハンブルグに生まれ、18歳でヴェルダー・ブレーメンの2軍に相当するU-23チームに移籍を果たしましたが、私とKさんが同選手に出会ったのはちょうどその翌年にトップチームに昇格して間もない時期のことだったわけです。既にチャンピオンズリーグの予備戦やリーグ戦でも途中出場ながら得点を決めており、非凡なものがあることはブレーメンの首脳陣も認めるところでした。そして何よりも俊足という武器があるので将来を嘱望される若手選手であったわけです。

しかし、前述のように何しろお人よしのアンちゃんというイメージのためか、チームでもいじられキャラで、現在は香川選手の同僚であるオボモエラ選手に「お前の鼻は、どうしてそんなにでっかいんだ!」とよくからかわれていたものです。とは言え、どんなキャラであろうとピッチで結果を出しさえすればOKなのがプロの世界ですが、当時のブレーメンは常にブンデスリーガで上位争いをしていて、チャンピオンズリーグの常連としての地位も築きつつあったので、なかなかレギュラーを獲得するには至らず、トップチームと2軍を行ったり来たりする日々が続きます。