8月2日、サッカー界に衝撃的なニュースが走った。2002年日韓ワールドカップにも出場した元日本代表DF松田直樹が、「練習中に突然倒れ、心肺停止状態で病院に搬送された」というものだった。

 大勢のサッカーファン、ともにプレーした多くの仲間やサッカー関係者の心からの祈りもむなしく、倒れてから2日後となる8月4日午後1時6分頃、松田は搬送先の信州大学医学部附属病院で帰らぬ人となった。享年34歳、あまりに早すぎる死だった。

 松田直樹は1977年3月14日群馬県桐生市生まれ、前橋育英高を経て横浜マリノス入り。以後、チーム名が「横浜Fマリノス」に変わっても16年間チーム一筋を通し、「ミスターマリノス」という愛称で他チームからも親しまれた。

 プレースタイルは豪快かつ繊細。高い身体能力を武器にしたヘディングとカバーリング、強気な攻め上がりからのシュート、そして何よりチームメートどころか対戦相手の不甲斐なさに涙する一本気な性格が、多くのファンの共感を誘った。

 その性格ゆえに、あつれきも多い。日韓ワールドカップで共に戦ったフィリップ・トルシエ監督、その後を受けたジーコ監督とも何度も衝突、控え扱いに納得がいかず無断でチームを離れて帰国するなど、その精神面での幼さもあった。しかしそうした部分含めて、横浜FMサポーターのみならず多くのサッカーファンから愛される存在となった。

 サッカージャーナルには、写真家・ノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏が有料メールマガジン「徹マガ」から特別寄稿を掲載。「【特別寄稿】 取材対象としての松田直樹 (宇都宮徹壱)」と題したコラムで、以下のように言及している。
反逆児、諸刃の剣、あるいは未完の大器。常に危うさをはらみながらも、彼が放つ言葉の数々は、そのいずれもが刺激的かつストレートで、そして子供のようにどこまでも純粋であった。人はそれを「未成熟」と呼ぶだろうが、松田直樹の場合のみ、特権的に許容されていたように感じる。そして、あくまでも成熟や老成を拒否し、いつまでも現役フットボーラーであり続けたいとする彼の生き方に、誰もが無意識の内に羨望の眼差しを向けていたように思う。

 昨年末に横浜FMから戦力外通告を受け、サポーターの前で涙ながらに「オレ、マジでサッカー好きなんすよ。マジで、もっとサッカーやりたいっす」と絶叫。その後多くのオファーを受けながら、JFLに所属した松本山雅FCに新天地を選び、Jリーグ行きの手助けをする覚悟を決めた矢先のことだった。

 松田を失った松本山雅は、ショックもあり成績が伸び悩んだものの粘り強く戦いを続け、ついにJ2昇格の切符を勝ち取った(参照)。

■参考リンク
松田直樹のサッカー魂 - 2011年8月3日

【特別寄稿】 取材対象としての松田直樹 (宇都宮徹壱) - 2011年8月9日
松本山雅を強くしたもの - 2011年12月14日