93-94シーズンにも17得点と活躍したバッジョだが、それでもミラン隆盛の当時、スクデットをチームにもたらすことはできなかった。しかし翌シーズン、ユベントスはついにセリエAの頂点に立つこととなる。彼にとっては、初のリーグ制覇だった。
 
 しかし、そこに喜びを見出すことはできなかった。このシーズン、彼は再び右膝を痛めて2か月の戦線離脱。その間、ユベントスは前シーズンにデビューしたアレッサンドロ・デル・ピエロをチームの中心に据えて快進撃を見せ、復帰後のバッジョの居場所はなくなっていたのである。
 
 そりの合わないマルチェロ・リッピ監督の構想から外れ、シーズン後にはユベントスから契約を延長しないという通告を受けたバッジョ。屈辱を受けた彼は、クラブが移籍交渉を進めていたインテル行きを拒絶し、そのライバルであるミランを新天地に選んだ。ここから、彼の流浪の旅が始まった。
 失意と怒りの末にミランに加入したバッジョ。ここでは、ファーストシーズンでスクデットを獲得し、自身は2年連続でのリーグ優勝となったが、喜びは明らかにこちらの方が大きかった。
 
 とはいえ、良い時と悪い時の差が激しいことから、ファビオ・カペッロ監督からは100パーセントの信頼を得ていたわけではなかった。翌シーズンは、オスカール・タバレス監督と良好な関係を保っていたものの、彼の解任を受けて後を継いだアリーゴ・サッキの下ではベンチに座る時間が長くなり、シーズン後にバッジョはミラノを去る決心を下す。
 
 97-98シーズン、成立しかけたパルマ行きはカルロ・アンチェロッティ監督の拒否でご破算となり、ようやく加入したボローニャではレンツォ・ウリビエリ監督から「会長から押し付けられた」として冷遇されたものの、バッジョは意地で本領を発揮し、キャリア最高の22ゴールを決めた。
 
 これで再び評価を高めた彼は、かつて入団を拒絶したインテルから迎え入れられる。しかし98-99シーズン、インテルは3度も監督が代わるなど大混乱に陥り、セリエAで8位に沈み、バッジョ自身もわずか5ゴールに止まる。
 
 翌シーズンはさらに状況は悪くなり、新監督としてユベントスから自分を追い出したリッピが到来。最初から両者の関係は冷え切っており、18試合(多くが途中出場)にピッチに立っただけで、バッジョはパルマとのチャンピオンズ・リーグ出場権を懸けたプレーオフでの意地の2ゴールを置き土産に、インテルを去った。
 
 そして2000年、彼にとって最後のクラブとなったブレッシャに加入。この弱小クラブを選んだ理由は、バッジョが故郷カルドーニョに近いクラブを望んだこと、そして監督がイタリアで最も温かく人情味のあるカルロ・マッツォーネだったことだ。
 
 ここでの4シーズン、彼は充実の時を過ごした。10、11、12、12点と2ケタ得点を記録し、キャリア最終年の04年3月には、史上5人目となるセリエA200ゴールを達成した。02年1月に左膝靭帯を損傷しながら、わずか2か月半で復帰して心身の強靭さを示したことも、彼にとって大きな勲章である。
 
 このように、クラブで偉大な足跡を残したバッジョ。それはイタリア代表でも変わらず、彼は世界の舞台でも多くの伝説を創り出してみせた。
 
 ユース年代の代表にも名を連ねた彼の、A代表での最初の大舞台は1990年。自国開催のワールドカップであり、当初はジャンルカ・ヴィアッリのパートナー候補のひとりであったのが、当のヴィアッリが不振に苦しんだことで、サルバトーレ・スキラッチ(この大会の得点王&MVP)と前線コンビを組んで母国の快進撃に貢献した。