93年、当時のバロンドールは欧州出身者だけが対象となっていたが、それでもバッジョの受賞は妥当だったと言える。ちなみに2位はデニス・ベルカンプ、3位がエリック・カントナだった。 (C) Getty Images

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 本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
 
 さて今回、サッカーダイジェストWebに登場するのは、その鮮やかなテクニックで観る者を魅了してきた、イタリアの歴史に残るファンタジスタ、ロベルト・バッジョだ。
 
 数度にわたる大怪我をはじめ、キャリアにおいて多くの苦難に見舞われながらも、そのたびに克服した鋼の精神力を持つ偉人の軌跡を、ここで振り返ってみよう。
 
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 ロベルト・バッジョは1967年2月18日、ヴィチェンツァ郊外のカルドーニョという街で生を受けた。父フロリンドと母マティルデのあいだに生まれた彼は、8人兄弟の6番目の子どもだった。
 
 幼い頃からサッカーに興じ、その正確なボール捌きで街の多くの電灯を破壊したという彼は、同時に父親との魚釣りや狩猟にも情熱を傾けながら少年時代を過ごし、地元チームを経て81年に当時セリエCのヴィチェンツァのユースチームに入団する。
 
 それは彼のサクセスロードの始まりであると同時に、怪我との戦いの始まりでもあった。入団の翌年にバッジョは、右膝半月板損傷に見舞われたのである。
 
 83年6月5日、ピアチェンツァ戦でトップチームデビューを飾った時、彼はまだ16歳だった。これは一時的な昇格だったが、翌シーズンには正式にチームの一員として6試合に出場し、初ゴールも記録。そして84-85シーズンは完全な主力として29試合で12ゴールを挙げ、一躍イタリア中にその名を知られることとなった。
 
 87年5月、バッジョはフィオレンティーナに移籍。その際、ヴィチェンツァに支払われたのは、27億5千万リラという当時としては天文学的な金額だった。
 
 しかし、バッジョは契約を交わした2日後にリミニ戦で右膝十字靭帯を損傷。1か月後に初めて手術を受ける。さらにその後、86年9月にも再び右膝を痛め、同年12月には半月板損傷と、立て続けに大怪我に見舞われ、加入から2シーズンでのリーグ出場数はわずか5に止まった。
 
 しかし怪我が癒えると、彼は本領を発揮。87-88シーズンの得点数は6だったが、そのうちのひとつはフィオレンティーナの天敵であるユベントスを敵地で下すものであり、バッジョはこれで完全にサポーターの心を掴んだ。
 
 翌シーズンはキャリアハイの15ゴールを決めて、オフには幼馴染のアンドレイアと結婚。伴侶を得てさらに気合が入った89-90シーズンは17得点と記録を伸ばすが、このシーズンは自身の去就が注目され、落ち着いてプレーできる状況にはなかった。
 
 当時、多額の負債を抱えていたフィオレンティーナは、150億リラという移籍金目当てにバッジョの放出を決定。その売却先がよりにもよってユベントスだったことで、サポーターは暴徒化し、街の施設が破壊される事態にまで至ったのである。
 
 90-91シーズン、名門クラブの一員となったバッジョは91年4月のフィオレンティーナ戦で古巣相手にPKを蹴るのを拒否。さらに交代退場する際、スタンドから投げ込まれたフィオレンティーナのマフラーを首に巻いたことで、ユベンティーノの反感を買うこととなってしまった。
 
 しかし、キャリアのピークを迎えていた彼は、ピッチでは抜群の存在感を示し、91-92シーズンは18得点、さらに翌シーズンには21ゴールを挙げて、UEFAカップ獲得に大貢献する。93年にはバロンドールを受賞するなど、この頃がキャリアにおいて最も充実した時期だった。