大六野耕作・明治大学副学長、政治経済学部教授

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■英語ができれば食うに困らないだろう

【三宅義和・イーオン社長】今回は明治大学副学長の大六野耕作先生をお招きしました。先生は政治経済学部教授であり、国際交流担当でもあります。そこで明大全体の国際化について、さらに、グローバル人材育成教育学会の取り組みについても伺いしたいと思います。

大六野先生と言えば、著名な政治学者であり、また明大のラグビー部の部長も務められています。経歴だけ拝見すると、英語あるいはグローバル化と直接的には関係はないような感じもするのですが、先生と英語との出合いは、やはり中学時代でしたか。

【大六野耕作・明治大学副学長】そうです。ただ振り返りますとね、私の英語体験は、もう本当に悲惨としか言いようがありません(笑)。中学に入ったのが1960年代後半。この時代は、とにかく覚えろというのが英語の勉強でした。高校に進んでも、旧制高校のドイツ文学の先生が、英語を教えているというような状態。それではなかなか身につきません。当時、旺文社が行っていた全国模試がありましたが、私は受けるたびに20点とか30点。それも100点満点ですよ(笑)。

ところが1度だけ、テストのヤマがズバリと当たって80点を取ったことがありました。すると、先生が答案用紙を返す際に、クラス全員の前で「大六野が80点を取った。何かの間違いだと思う」と言う。それぐらいできませんでした。

【三宅】英語だけが苦手でしたか。教科全体はお得意だったのでしょうか。

【大六野】いえいえ、全般的にお得意じゃございませんでした(笑)。

【三宅】ただし、スポーツ、とりわけラグビーには青春をかけておられた。

【大六野】高校時代はラグビー部のキャプテンをやっておりました。こちらは自慢できます。ただ、英語も嫌いだったわけではありません。テストの点数が低かったのは出題の仕方が私に合わなかっただけ。というのも、出てくる問題が「アクセントの位置はどこか」でしょう。そんなこと覚えられるか、この野郎と(笑)。

【三宅】でも、英語が得意でない場合、だいたい嫌いになるケースが多いのですが、後にアメリカ留学までされる。それはなぜでしょうかね。

【大六野】ハイカラなものが好きなんですね。とはいえ、大学に入っても、やっぱり英文を日本語に訳すだけ。1年生の後期になると、学生運動が燃え盛り、キャンパスはロックアウト。講義は休講になり、2年生のときには前期と後期の試験のときだけしか行った覚えがありません。ラグビーは続けていたのですが、基本的には毎日、下宿にいるわけですから、「このままだと、ちょっとまずいね」と思い、ある日突然、アメリカに行こうと決めました。2年の途中です。

それなりの打算が働いていまして、アメリカに半年ぐらいいて、英語ができるようになれば、それで食うには困らないだろうと考えました。留学先はカリフォルニア大学バークレー校のエクステンションですね。そこに半年ほど通って、さらに3カ月ばかり滞在しました。

■みんなの話についていくのに必死だった

【三宅】旅費と滞在費はどのくらいでしたか。

【大六野】当時は、変動相場制に変わって、1ドル=300円ぐらいでした。少しは円の価値が上がったとはいえ、とにかくアルバイトして少しでも多くおカネを貯めなきゃいけないということで、水道工事の仕事をやりました。一生懸命ですから、すぐに腕も上がる。そのうち、親方から「おまえ、もう大学をやめて、ウチに来い」と言われたぐらいです。とにかく50万円ほど貯めました。それで渡米したのですが、その準備として、アルバイト中は毎朝、東後勝明先生のNHKラジオ「英語会話」を聴いていたんです。

【三宅】ありましたねぇ。

【大六野】1度ではわかりませんから、オープンリールのテープレコーダーに録音しました。夕方4時ぐらいにアルバイトの仕事が終わりますから、まっすぐ下宿に帰って、そこから懸命に聴くわけです。こうやっていれば、アメリカに行っても会話には苦労しないだろうと思って、ガンガンやりました。ところが、その効果はむなしいものでした(笑)。

エクステンションのプログラムは、9月から始まりまして、私は英語と、アメリカ史を受講しました。向こうでは、寮に入って、アメリカ人と一緒に食事をしたりするのですが、彼らが何を言っているのかさっぱりわからない。外食の際も同じです。私はハンバーガーが大好きなんです。バークレーに今はありませんが、「ジャイアントバーガー」というお店がありました。本当にビッグサイズ。でも、頼むのにドキドキしてしまうわけです。

【三宅】わかります、大変だったでしょう。

【大六野】店員さんが「Would you like something else?」と声をかけてきますが、聞き取れなかったらどうしようと心配でしかたありません。もう、店の前を30分ぐらい行ったり来たり。それでも、ついに我慢しきれず、店内に入る。案の定、英語で注文を聞かれるわけです。

しかし私には「ウンギョウンギョンギョ」としか聞こえない。それでしょうがないから、「Yes」って言ってしまった。すると「What would you like to drink?」と聞いてくるじゃないですか(笑)。今度は「No」と。みるみる店員さんの顔色が変わりました。そこでもう、とにかくお金をカウンターにパッと置いて、ハンバーガーをガッと握って、ピープルズパークへ逃げ込んで、泣きながら、ハンバーガーを食べました。

【三宅】そうでしたか(笑)。

【大六野】もうその日は「俺はどれだけ長くいても、絶対に英語はわからない。聞き取れないし、しゃべれない」と焦って、一計を案じたのです。私は、ロックフェラー2世が寄付して、建てたという、古いインターナショナルハウスで昼、夜の2食は食べていました。そこに日本文学を研究している人のよさそうなアメリカ人青年がいる。

彼を近くの日本料理屋に連れていき、100ドル、日本円で3万円の大枚を払って、キリンビールに牛の照り焼きをご馳走したのです。そして「おまえ、これから毎日、俺の横にいてくれ。インターナショナルハウスでの食事時、俺はわかったようなふりをして『Oh my!』と口を合わせるから、あとで、何を話していたか教えてほしい」と頼み込みました。わからない言葉を彼に聞いて、それから、ダイニングルームに、いま来たような顔して座り、自分なりの発言をするわけです。途中でわからなくなったら「By the way」と話題を変えてしまう。とにかく、みんなの話についていきたいと必死でした。

■ある時点でブレークスルーできれば世界が広がる

【三宅】しかし、先生、えらいですよ。ひとたびはくじけそうになっても、英語を体得しようとする。しかも、会話の渦中に身を置いてというのがすばらしいです。

【大六野】でもすぐにネタが切れてしまいます。それで「サンフランシスコ・クロニクル」という日刊新聞の人生相談の記事を全部覚えました。それで、いつもの「By the way」の後に、「I read an article」と言って、覚えたとおりしゃべるわけです。そして、周囲の学生たちに「What do you think?」。すると、向こうがしばらく感想を話してくれます。それをわかったふりをして聴いている。何度も肯きながらですね(笑)。

【三宅】いまの学生たちが学ぶべきは、その度胸といいますか、果敢な姿勢ですよ。そうでないと、せっかくアメリカに留学しても、ただむなしく時間が過ぎてしまう。私も仕事柄、海外に行った人によくお会いしますけれども、意外に英語力がついてない人もいます。やっぱりアメリカにいるときの学習姿勢と言いますか、英語に対する態度によって全然違ってきますよね。

【大六野】とにかく失敗を恐れずに、恥をかきながら、そんなことを3カ月ほど続けました。すると不思議ですね、例の青年と一緒に寮の階段を上っていて、10歩、ほんとに10歩昇ったときに、彼の言っていることがはっきりと聞き取れるようになったんです。

【三宅】まさに、ある日突然。

【大六野】はい、いきなりでした。確かに、朝はバークレー校のランゲージラボへ行き、訓練を受け、もちろん授業にも出て、それで昼間と夜は、食堂での会話が英語の勉強でした。それでも、なかなか英語が上達したという実感はありませんでしたから、嬉しかったですよ。そこからはもう一気呵成でしたね。

ですから、私が明治大学の学生たちに言うのは「外国に行くんなら、1カ月じゃなくて、3カ月、半年ぐらいは行ったほうがいいですよ」と。もし、私が経験したようになる直前に帰国してしまったらもったいない。ある時点でブレークスルーできれば、世界がグッと広がるということを知ってほしいと思います。

余談ですが、やはり異性を好きになると上達も早い。いまは懐かしく思い出しますが、留学中のある雨の日にアメリカ人のガールフレンドから電話がかかってきて「きょう、会えないか」と。私は一足しかない靴を洗ったばかりで、替えがないので裸足で飛び出しました。舞い上がっていたのでしょうね。その日は、そのまま街中を歩いていた記憶があるんです。

それとあとは映画です。当時、「ゴッドファーザーパート2」が上映されていました。長い映画ですよね。だから、1日2回ぐらいしか上映しないんです。私は朝からシアターに行って、最終上映まで観ました。これを4回ほど繰り返せば、アル・パチーノやダイアン・キートンたちの会話を完全に覚えます。何かそういう心がワクワクする経験を、学びに取り入れるといいでしょう。

(三宅義和・イーオン社長 岡村繁雄=構成 澁谷高晴=撮影)