2014シーズン最終戦、アブダビGP決勝の朝、ケータハムのガレージではメカニックが小林可夢偉のマシンのもとで見慣れない作業をしていた。

 モノコックに紙やすりを掛け、エアブラシで液体を塗布する――。フロントサスペンション付け根の傷ついた箇所を、ケータハムグリーンの塗料でレタッチしていたのだ。

 ケータハムのガレージにいるスタッフのうち、約半数がこれまでファクトリーで勤務していた面々だった。シーズン開幕時からいたオリジナルメンバーのほとんどは離職または解雇されて、約40名だけの急ごしらえの所帯でこのアブダビGPに臨んでいたのだ。チーム資産を受け継いだ管財人はクラウドファンディングによって集めた資金でなんとか参戦を果たし、チームを存続させる道を模索している。

 レース週の月曜になってチームから出場の打診を受けた可夢偉は、即答した。

「『走れるみたいだけど走る?』って言われたんで『うん、走る』って答えました。即決です。すぐに『おカネ払わんでいいの?』って聞きましたけど(笑)、大丈夫やっていうから『ほな行こう』って」

 アブダビの前に走った10月のロシアGPではパーツ寿命不足のため、突然のリタイアを余儀なくされ、チームとギクシャクしたままだった。それだけに、どんなレースになろうとも可夢偉としてはここで走っておきたいという思いが強かった。

『それに、もう自分がF1でレースをするチャンスはないかもしれない――』

 現実的な可能性として、可夢偉の脳裏に浮かんでいたのはそんな考えだった。傍目から見れば、ボロボロのクルマとチームで走ったとしても限界は見えている、そんなレースに何の価値があるのかと言われるかもしれない。しかし、可夢偉にとって、この最終戦は大切な1戦だった。

「自分の全レース人生を賭けて、集大成として臨みたい」

 可夢偉はそう言った。

「今の状況では来年F1でレースをすることは厳しいと思うし、来年走れなかったら再来年はもう30歳でしょ? 10代の若い子が走ってるっていうのに、30歳のオッサンがF1に戻ってくるって、よっぽど何か大きなものがないと難しいでしょ? だから、もしかしたらこれがF1で最後のレースになるかもしれないって思うし、ここで走るチャンスがあるならこれは思う存分レースしておくべきかなって思ったんですよね」

 思い返せば今年の初め、1年間の留年を経てF1に戻ってきた可夢偉は「とにかく楽しみたい」と語った。「(前オーナーの)トニー・フェルナンデスがくれたチャンスを生かし、チームに貢献することで自分の力を証明したい。これが最後のチャンスだと思う」と。

 そしてその言葉どおり、チームの牽引役として自らの経験を総動員してこのチームを変えようと必死でもがいてきた。

 2014年のケータハムの船出は、決して順調ではなかった。ルノーのパワーユニットの開発がうまくいかない影響で満足にテストができず、マシンのデザインもややコンサバティブ過ぎた。

 しかし、可夢偉が先頭に立って開発の方向性を示し、チームの運営面にもアドバイスをして改善を進め、シーズン序盤戦は、マルシアはおろかザウバーとさえ戦えるほどのポテンシャルを見せていたのだ。

 だが、5月のヨーロッパラウンドを迎える頃から開発予算は削られ、新たなパーツの製造ができなくなった。チームの成績は停滞し、モナコでは千載一遇のポイント獲得のチャンスをライバルチームのマルシアに阻まれ、失望の連続だった。
  ついには、7月にチームが売却され、新たな経営陣が乗り込んできてからは別のチームとなってしまった。新たな資金投入によって保留となっていたアップデー トの開発は行なわれたものの、持参金ありきのドライバー選定など、資金優先の運営になることで、シーズン後半戦はもはや成績を追求する姿勢は失われてし まった。
「この最終戦でどこまでやれれば満足かといわれれば、まぁ自己満足(を目指すだけ)じゃないですか? ベストのクルマだったらやることは勝つことしかないけど、僕らはグリッド上で最低のクルマですからね、間違いなく。今のチーム状況では何か目標を目指して レースをすることなんてできないし、結果を望むことは難しい。自分が満足できるレースをするというくらいしかない。もしこれが最後のレースになったとして も思い残すことがないように、自分自身が満足できるように楽しもうっていう、それだけです」
 アブダビGPでは、今年ずっと苦楽をともにしてきたレースエンジニアもデータエンジニアもおらず、もう1台のマシンを担当していたデータエンジニアとコンビを組むことになった。だが、可夢偉はそれに不満を述べたりはしなかった。
 マシンのパーツは、新型リアカウルこそ再び用意されたが、ひとつしかない最新型フロントウイングはチームに持参金を持ち込んだチームメイトのウィル・スティーブンスに与えられることになった。可夢偉は粘り強く交渉したものの、それを覆すことは難しかった。

 決して恵まれた環境とは言えなかったが、可夢偉はこの1年間ずっと自分が牽引し成長させてきたこのチームとマシンを背負い、アブダビGPに臨んだ。

 そして、これがF1での最後のレースになったとしても悔いがないよう、可夢偉はやれる限りのことをやった。予選最後のアタックで右の前後ホイールをガードレールにこすりつけながら走ったことにも、可夢偉の思いが強く表れていた。

「ギリギリやけどいってみようと思っていったら、案の定ギリギリやったっていうね(苦笑)。上とのタイム差が結構あったから、かなりチャレンジせなあかんっていうのは思ってて。自分なりに守りに入らずに攻めていこうって思ったんです」

 守りに入らず、路面コンディションの変化を先読みしてマシンにセットアップ変更を施す賭けにも出た。結果的にそれが当たらず、リアタイヤがズルズルになってガードレールに接触してしまったわけだが、可夢偉は満足げな表情だった。

 悔いのないレースを。その思いの通りに戦えていたからだ。


 11月22日、日曜日の午後5時、最終コーナーの向こう側が夕焼けに染まり始める中で、アブダビGPの決勝はスタートの時を迎えた。

 スターティンググリッドにマシンを停めた可夢偉がコクピットから降りヘルメットを脱ぐと、誰からともなくスタッフがマシンの周りに集まって可夢偉をその輪に呼び入れ、記念撮影が行なわれた。これが最後のレースになるかもしれない――。その思いはチームのスタッフたちも同じだった。

 日が傾くとそれほど暑くはない夕方のアブダビだが、可夢偉はぎゅっとタオルで顔を覆ってしばらく動かなかった。ヘルメットを被るその前に汗を拭っていたのか、それとも......。

 スーパーソフトタイヤでスタートした可夢偉は、レースを精一杯楽しむかのように好ペースでザウバーを抑えて走った。しかし、左リアのブレーキダクトにタイヤカスが挟まり、そのせいでブレーキが過熱してフェード(ブレーキが効かなくなる現象)に見舞われ始めた。その症状は徐々に悪化していく。

「3周目くらいから出ていましたね。『リアブレーキが熱いからブレーキバランスを前に持っていけ』って言われて。そしたらフロントがロックするし、試行錯誤しつつそれを調整しながら走ってた感じですね。ブレーキを踏んでも片側だけ効かなくてステアリングが勝手に右を向いてしまうような状態でした。最後はバイブレーションまで出てきたからちょっと危険すぎるかなと思って......」

 42周目、チームは可夢偉をピットに呼び入れ、そのままエンジンを切るように指示した。あまりに呆気ないエンディングだった。

 しかし、今の自分たちにやれることをやり切った可夢偉は、清々しい表情をしていた。

「よくやれたと思います。チームもバタバタの中でやって来て、決勝までトラブルなく走ったっていうのは、チームのみんなが頑張ったって思う。僕自身も、(クルマが問題を抱えた)あの状況であれ以上やれって言われても限界やったと思うし。ロシアで終わってたら、モヤモヤしたまま自分の一生を終えたんかなって思うし、とりあえず最終戦に出られてスッキリしてよかった。うん、満足できました」

 スタート前のグリッド上でどんな気持ちだったのかと聞くと、可夢偉はしみじみと言った。

「いやぁ、なんかね......、『もしかしたらF1でバラクラバ(ヘルメットの下に身に着ける難燃繊維)を被るのもこれで最後なんかなぁ』とかいろいろ考えて、もし自分が20歳に戻れるなら戻りたいなぁって、初めて思いましたよ。もしかしたらこれが本当に最後のレースになるかもしれないっていうのは、初めてですからね......」

 ふと見れば、午前中にメカニックが触っていた右フロントサスペンションの付け根は、同じ色のペイントで塗装が施されてはいたが、ヤスリがけの跡と元々の美しい塗装との間に段差が生じ、その一部は剥がれ始めていた。それはケータハムというチームの置かれた状況、そしてマシンの技術レベルを物語っているようだった。

「もし20歳に戻れたら、もうちょっとチャンスあるかなぁって思うんですよね。もうちょっと違うキャリアの進め方ができたんじゃないかなぁって。やり残したっていう気持ちがあるし、まだ戦えると思うんやけどなぁ......」

 一度でいいから彼にもっと優れたマシンでレースをさせてあげたかった、小林可夢偉の真の実力を見てみたかった。ボロボロに傷ついたケータハムのマシンを見て、言いしれない悔しさとともに、そんな思いにとらわれずにはいられなかった。

 こうして可夢偉の2014年シーズンは幕を降ろした――。

米家峰起●取材・文 text by Yoneya Mineoki