2014年の王者が決まる最終戦アブダビGP決勝の朝、ルイス・ハミルトン(メルセデスAMG)は、まだ夜も明け切らない午前5時過ぎにベッドから抜け出した。

 すでに王座獲得経験があり(2008年)、今シーズンをリードしてきた彼でさえ、極度の緊張のため熟睡することなく朝を迎えてしまった。それが「F1の世界チャンピオンを争う重圧」というものだった。

「木曜にアビダビに来た時は本当に良い気分でリラックスしていたし、フリー走行もうまくいった。でも、予選が少しうまくいかなくて、プレッシャーが増したんだ。レースに集中しようとしたけど、昨夜は眠れなかったよ......」

 ハミルトンは襲いかかるプレッシャーを跳ねのけるように、ランニングをしたりマッサージを受けたりしてサーキットに向かうまでの時間を過ごした。

 9月のイタリアGPから破竹の5連勝を挙げ、後半戦に入ってからというものチャンピオン争いの流れはハミルトンに傾いていた。USGPでは、コース上で優勝争いを続けていた僚友のニコ・ロズベルグを抜き去り、雌雄は決したかに思えた。事実、後半戦のハミルトンは驚くほどリラックスした様子で「優勝することだけを考えて」レースに臨み、それを現実のものにし続けてきた。

 しかし、最終戦を前にしたブラジルGPで様相は一転した。

 ロズベルグがオースティン(USGP)の屈辱的敗北から立ち直り、レースウィーク全体を通して完璧なパフォーマンスを発揮し、優勝をもぎ取ったからだ。

 ただしロズベルグは、アブダビGPで優勝しても、ハミルトンが2位に入ればタイトルを獲得することはできない。条件は厳しいが、だからこそロズベルグはプレッシャーから解放されて目の前の優勝だけを目指してアブダビGPに臨むことができた。レース週末を前に、精神的優位に立っていたのは追う側のロズベルグの方だったのだ。

「ブラジルでも僕は進歩することができた。オースティンの経験のおかげで、僕は大きな自信を得ることができたんだ。今は目の前のレースに勝つことだけを考えている。ルイスが3位以下になるためには、少しばかり運も必要だし、彼に何かが起きることを期待するしかない。僕はやれることをやって彼にプレッシャーを与えるだけだ。チャンスはないわけじゃない」(ロズベルグ)

 ハミルトンも目の前の勝利だけを考え、プレッシャーは感じていないと口にしていた。しかし、レースに集中するために、今回は家族をアブダビに呼ばず、ひとりで孤独に戦うことを選んだほど、いつもの精神状態ではなかった。そして、土曜の予選でロズベルグにポールポジションを奪われ、自らは2位――。

 予選が終わった土曜の夜、ハミルトンはホテルのプライベートビーチに出て、ひとりの時間を過ごしていた。

 いくら選手権をリードしていようとも、2位に入れば王座が決まろうとも、何が起きるかは誰にも分からない。開幕戦やカナダGPで自身の身に起きたように、トラブルが起きないとも限らない。とりわけ、ハンガリーGPの予選でパワーユニットが火災に見舞われて以来、ロズベルグよりも1基少ないパワーユニットで戦ってきたハミルトンには、信頼性の不安があった(パワーユニットは年間5基の制限がある)。土曜夜のハミルトンは、極端に口数が少なく、ナーバスになっていることがありありと見てとれた。

「たとえば、ウイリアムズが好スタートを切って僕らの間に入ることもありうるからね」

 イギリスGPやシンガポールGPでは、トラブルでレースを失っていたロズベルグが口にしたそんなシナリオも頭をよぎる。もちろん、チームはそうなった場合も想定してレース戦略を用意しているが、抜き所の少ないヤスマリーナ・サーキットでは、最高速の速いウイリアムズ勢を抜くのは容易なことではない。そして、バトルをすることはマシンに必要以上の負荷をかけてしまい、トラブルを引き起こしかねない。

 2007年の最終戦ブラジルGPで、ハミルトンは選手権リーダーとして臨んだにも関わらずステアリングのトラブルで最後方まで落ちてタイトルに手が届かなかった(年間総合優勝はフェラーリのキミ・ライコネン)。5位以内でフィニッシュすれば良いだけだった翌2008年の最終戦ブラジルでも、雨に翻弄されて順位を落とし、最終ラップの最終コーナーで5位に入るという際どいタイトルの獲得だった。

 考えれば考えるほど、ネガティブなイマジネーションが広がっていく。

 純粋な速さでは抜群のハミルトンだが、精神的な弱さを指摘する声は多い。過去のタイトル決定戦では、「平常心で戦えなかったことは事実だ」とハミルトン自身もそれを認める。

「2008年の時は、今ほどの知識がなかった。だから、いつものようなレースアプローチができなかったんだ。今年も『明日はタイトルが決まるレースだ、マシンに何かが起きてタイトルを失うことだってあるかもしれない』と考えたりもした。ネガティブな考え方に支配されてもおかしくなかった。でも僕は、それをポジティブなものにするように全力を尽くした。積み重ねてきた経験と知識が僕を導いてくれたんだ」

 後ろ向きの思考を振り切り、ポジティブな気持ちでレースに臨む。それは単純に、いつもと同じように何も考えず、そのレースで勝つことだけを目指して戦うことだった。そうやって果たしたのがシーズン前半戦の5連勝であり、後半戦の5連勝だった。

 8月のベルギーGPでハミルトンとロズベルグが接触し、チーム内には険悪な空気が漂った。しかし、そこから立ち直って次のイタリアGPから5連勝を挙げたのは、ハミルトンが後ろ向きの思考を振り払うことができたからだった。

「スパ(ベルギーGP)は今年最悪の場面のひとつだった。数年前の僕ならあの難しい状況に直面して、ポジティブじゃない考え方に支配されていたかもしれない。でも、僕も成長したんだ。次のイタリアGP以降、違うアプローチで臨むことができた。それが勝利をつかみ獲る要因になった」

 実際、イギリスGPの雨の予選で6位に沈み、心が折れそうになりながらも、家族の支えで決勝では強い心を取り戻して逆転優勝を果たした。子どもの頃から支えてくれた家族、とりわけ二人三脚でレースをしてきた父との語らいが、彼に強さを与えてくれた――。

 そして迎えたアブダビGP決勝の朝、来ないはずだったハミルトンの家族とガールフレンドがアブダビを訪れて、サプライズを仕掛けた。

「彼らの献身のおかげで僕はレースをすることができているし、今の僕がある。すべては彼らのおかげだ。だから、もしも今日ここに家族みんなでいられなかったら、それは正しいことではなかっただろう」

 勝利にかけるポジティブな情熱を取り戻したハミルトンは、タイトル争いを忘れてこのレースでの勝利だけを追い求めた。

「レース前に(スタートの)クラッチ調整をやるエンジニアが僕の部屋に来て、『今日はどうアプローチしたい?』と聞いたんだ。僕は『いつも通りでいい、いつも以上でも以下でもなく、いつもの通りだ』と答えた。その結果、今までで最高のスタートになったね」

 スタートで首位に立ったハミルトンは、ロズベルグを引き離していった。

 ロズベルグはタイヤをいたわりピットストップを遅らせて逆転を狙う作戦に出たが、パワーユニットのERS(エネルギー回生システム)が不調になり、パワーが失われるとともに、ERSと直結しているリアブレーキの安定性も失った。レース終盤には、走っているのがやっとの状態で、エンジニアはリタイアを勧めたが、ロズベルグは「いや、最後まで走りたいんだ」と言って14位でチェッカーフラッグを受けた。

「ものすごくガッカリしているよ。勝つチャンスはあったからね。でも今日のレースがどうだったとしてもルイスがタイトルを獲ったことには変わりない。彼にはチャンピオンの資格がある。彼が今年のベストドライバーであり、僕よりも少しだけよかったということだ。僕らは素晴らしいバトルを繰り広げてきた。緊迫した1年だったけど、最高だった」(ロズベルグ)

 ハミルトンはトップでチェッカーを受け、アブダビGPを制すると同時に6年ぶり2度目の世界チャンピオンに輝いた。予選トップの回数こそロズベルグが12対7で上回ったが、勝利数ではハミルトンが11勝を挙げて2位のロズベルグに67ポイント差を付けた。

 バイザーの下に溢れる涙が、これまでハミルトンが背負ってきた重圧と乗り越えてきた試練の大きさ、そして支えてくれた家族への感謝を物語っていた。

「身体から魂が抜けるような気分だよ。言葉にするのはとても難しい。今まで生きてきた中で最高の気分だ。人生最良の日だよ。それもすべて家族や周りのみんなのおかげだ。みんなに感謝したい」

 勝つべき者が勝ち、頂点に立った。こうして2014年シーズンはフィナーレを迎えた。

米家峰起●取材・文 text by Yoneya Mineoki