『袴田事件』山本徹美著(プレジデント社)

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■「袴田事件は冤罪です」

ある編集者が私を紹介するのに、

「酒、競馬、殺し、と、あと……」

ときたので、すかさず、

「金融もやってます!」

付け足したことがある。念のため、取材の対象分野について、である。

1991年頃、ある雑誌で「チェック・ザ・シーン」というスポーツコラムを連載していたのがスポーツニッポン新聞社の記者の眼にとまり、何か書いてみませんか、と打診された。かねてより、殺人事件の取材機会に恵まれ(?)、警察・司法関係者の人脈、ケース(事件・判例)資料ともに多少の蓄積があり、それとスポーツ・ノンフィクションとを合体させたようなものを、と考えていたところ、たまたまニュースでファイティング原田会長(当時)がリング上で、

「袴田事件は冤罪です」

汗だくで熱弁をふるう姿を観た。これが、きっかけである。

殺人事件取材については、作家の岩川隆さんに鍛えられた。岩川さんの『殺人全書』(徳間文庫)では、スタッフの一員に加えていただいたが、当初は西も東もわからない駆け出しの新米である。題材が過去の事件であるため、裁判資料から入手しなくてはならない。それが容易ではなかった。

まず、調べたい殺人事件の「事件番号」を突き止めなくてはならない。それは地裁の刑事事務課にある。が、担当者が調べて教えてくれるかどうかは、交渉してみないとわからない。事件番号が判明したら、地検の刑事部へ。刑事記録課か刑事訟廷記録課の検務1課もしくは検務2課へ行き、記録係と交渉する。そこで、了承されたとしても、せいぜい判決文の閲覧だけで、コピーはまず、無理。公判調書にいたっては、法律で当事者以外の謄写を禁じている。

東京地裁の場合は、何回も通い、記事を見せるなどして、ある程度信用してもらえたらしく、いつしか、また来たの、という感じで事件番号を教えてもらえるようになった。これが地方となると、そうはいかない。一見(いちげん)さんお断りは当たり前で、2回、3回、とお願いに行く。そんな経験を重ねるうちに、2回目の感触で、だいたい融通の利く相手か否かが判別できるようになった。

地検のほうは、もっと手ごわい。おしなべて失敗に終わる。が、なかには、判決文だけ見せてもらえる場合もあった。それも例外であって、わずかでも感触がある時は、

「せめて、担当の弁護士だけでも」

と、食いさがる。それで名前を教えてもらえたことも2、3回、あった。

その後、アメリカで殺人事件の取材をする機会があったが、判決文はもとより死体検案書から、警察、検察官による調書まで、コピー代さえ払えばだれでも自由に入手できると知り、実際にそれを体験して、さすが先進国はちがう、と感心し、羨ましくもあった。

いずれにせよ、過去の裁判資料を入手するのは、なかなかホネが折れ、時間のかかる作業なのである。

■刑事訴訟法「事実の認定は証拠による」

その点、袴田事件に関しては、「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌を救う会」(当時)の事務局長だった平野雄三さん(故人)が、裁判資料(公判調書)を一括管理していて、

「支援集会では公開しています。どうぞ、コピーしてください」

と快諾して下さった。とはいえ、公判調書は約1万枚。ファイルにしてざっと40冊、段ボール箱3箱分である。

スポニチ連載中は、ルポルタージュが主体であったため、公判調書は必要な部分のみメモしていた。その後、悠思社で単行本化する際には、基礎資料としてこれは絶対に必要不可欠とあって、私はたった一人で黙々とコピーした。見かねて、

「お手伝いしましょうか」

とも言われたが、欠落など間違いがあったとき、他人を恨むよりは自分を、との思いからお断りしたのであった。

コピーだけで、のべ10日間を要した。

さて、厖大な公判調書は、アトランダムな内容で、そのままでは何がどうなっているのやら、さっぱりわからない。そこで、付箋とノートを連携させて、インデックスを作成することにした。これも、岩川さんに教わった整理方法である。

付箋はファイルごとにシリアルナンバーをつけ、ノートにその要略をメモした。その作業に半年近くかかってしまった。

付箋だけでも8000枚に達していた。もっとも、これを作製したおかげで、公判調書のどこに何が記載してあるか、検索を迅速かつ正確にこなせるようになった。

そのうえで、私は、警察の調べや、証人の証言が、はたして事実に即したものであったのか、どうか、吟味し、考察を重ね、文章にしていった。

岩川さんの「殺人全書」でも冤罪を扱った経験がある。が、それらのケースはなにがしかグレーな部分があって、犯人とされてもやむなし、と思わせたものだ。ところが、袴田事件に関しては、袴田さんが犯人とされても仕方ない、と思わせるような要素はまったく見いだせなかった。

「刑事訴訟法第317条 事実の認定は証拠による」

犯罪事実は、証拠によって証明されなくてはならない。袴田事件において、なぜ、これが「証拠」となるのか。私には不可解な証拠がいくつもあった。警察・検察の主張するような「事実」が、いったいどこから引っ張り出せるのか、資料をあたりながら、まだ若かった私は、

「そんなバカなことがあるか!」

何度も毒づいたものである。

(ジャーナリスト 山本徹美=文)