テキスト系妄想メディア「ワラパッパ (WARAPAPPA )」より

その日私はいつもより少し早く出勤した。今日は朝一番から大事な商談がある。一度事務所に立ち寄って、書類を確かめてから商談に向かう予定だった。

それにしても、たった15分早いだけで東京メトロの車内は大変な混雑だった。乗車率300%といったところだろうか。普段の出勤時間であれば、座れることはないにしてもここまで混んではいない。

ほぼ身動きが取れない車内で、私はどうしてもメールの確認をしておきたかった。もぞもぞと体をくねらせて、左胸の胸ポケットに入っているiPhoneを右手で取りやすい場所に移動させる。左右の胸を寄せるような格好になっているのが、地下鉄の窓に映っているのが見える。自分がパイレーツの「だっちゅうーの」のスタイルになっていることに気づき、少し照れる。もちろん、私が今パイレーツになっていることなど、周りの人たちは気にしていない。静かに目を閉じてじっと苦境を耐える中年サラリーマン、狭いスペースを巧みに利用してスマートフォンでゲームを楽しむOL風の女性、顔の近くに携帯を寄せて目を細めながらメールを読んでいる男性。みんなそれぞれに自分の世界に入っている。

なんとかiPhoneを右手に取ることに成功した私は、胸を寄せたパイレーツスタイルのままiPhoneのホームボタンを押した。4桁の暗証番号を入れてホーム画面を立ち上げる。どうやら私は人よりも親指の長さが短いらしく、iPhoneが5になって以来その操作に苦労している。4の時はそんなことはなかったのだが、5になってiPhoneが縦長になった分、親指の長さが足りなくなったようだ。

メールを確認しようとすると、画面上に「ワイヤレスネットワークを選択」のウインドウがポップアップした。立ち上げる度にこの画面が現れるのが面倒なので、設定を変えなくてはと思っていたところであった。Wi-Fiの設定で「接続を確認」をオフにすればいいのだ。電車を降りたら設定しよう、と思っていると「ワイヤレスネットワークを選択」に現れたネットワークの選択肢にふと目がいった。いつもなら特に気にすることなく反射的に「キャンセル」を押すのだが、今日は踏みとどまった。

上から3つ目の選択肢、「yukari_wasshoiのiPhone」。



ゆかり。

今から10年以上も前、私がまだ若々しい青年だった頃につきあっていた女性だ。当時、彼女のメールアドレスが「yukari_wasshoi」だったのだ。yukari_wasshoi、そう、「ゆかりワッショイ」だ。ゆかりは「ワッショイ」をメールアドレスに入れるほどお祭り好きな女だった。カラオケではいつも美空ひばりの「お祭りマンボ」を楽しそうに歌った。「それそれそれお祭りだー」の前の「ワッショイワッショイワッショイワッショイ」を徐々に盛り上げていく歌い方には定評があり、スナックなどで歌うと「君、いくつなのよー」と老人たちからチヤホヤされていた。

今、僕のiPhoneに「yukari_wasshoiのiPhone」という表示が出ている。

この近くにゆかりがいるのだろうか?

私は窮屈な体勢のまま、首だけを動かして周囲を見渡してみた。しかし、ゆかりらしき人物の姿はない。このyukari_wasshoiはあのゆかりワッショイではないのか?

いや、ゆかり以外にゆかりワッショイと名乗るゆかりなんているはずがない。きっとこの車両のどこかにいるはずだ。そして、あれから10年以上経ったゆかりは僕と同じようにiPhoneを使っていて、アイホンの名前に「yukarai_wasshoi」と登録しているのだ。

ゆかり!

心の中で私は叫んだ。

私の車の助手席でカーステレオを操作するゆかりの横顔が浮かんでくる。ゆかりは「お祭りマンボ」を頭出しして、CDと一緒になって歌う。「ワッショイワッショイワッショイワッショイ」を徐々に盛り上げて、「それそれそれお祭りだー」と大声で叫ぶ。私はそれに合わせてクラクションを鳴らす。夜の中央高速を走る私たちの右には競馬場が見えた。

2人は別れてしまったのだから何か原因があったはずなのに、今となってはゆかりワッショイとの楽しい思い出しか浮かんでこない。

どうしてどうして僕たちは別れてしまったのだろう。

東京メトロが次の駅に止まる。私が立っている側のドアではなく、反対側のドアが開く。どどどーっと車内の人たちがドアに殺到していく。ドアに向かう人たちの中にゆかりワッショイの姿を探すが見つからない。ゆかりワッショイはどこにいる? 降りて行った人の数と同じ数だけ新しい乗客が乗ってくる。ひいては寄せる波のように、車内は再び乗車率300パーセントに達し、私は窮屈な体勢を強いられる。

私は窮屈な体勢の中で、再びiPhoneのホームボタンを押した。



そこにyukari_wasshoiのiPhoneはなかった。

さっきの駅で降りてしまったのだろうか。

さっきの駅にゆかりワッショイが勤める会社があって、ゆかりワッショイは毎日そこで仕事をして、たまに同僚たちとお酒を飲むこともあるだろう。

私は今のゆかりワッショイを想像した。「ワッショイワッショイワッショイワッショイ」の盛り上げ方に磨きがかかっているかもしれないし、もう、そんなことはやっていないかもしれない。

いずれにしても10年以上も前に終わった恋なのだ。

私はゆかりワッショイのことを考えるのをやめて、この後の商談に向けて頭をビジネスモードに切り替えようとする。しかし、頭の中では「お祭りマンボ」の最後の歌詞が繰り返されるのであった。


お祭りすんで 日が暮れて
つめたい風の 吹く夜は
家を焼かれた おじさんと
ヘソクリとられた おばさんの
ほんにせつない ためいきばかり
いくら泣いてもかえらない
いくら泣いても あとの祭りよ


オマケ




この記事の元ブログ: Wi-Fi恋愛小説「お祭りマンボ」