ではこの日本のユニークな視点、アメリカやヨーロッパではスルーされた匿名性に惹きつけられた背景にある事情は何なのでしょうか?

およそ100年前にマスメディアと邂逅したときに見せた姿勢は、そのヒントになるかもしれません。

ラジオという新技術の導入にあたり、案の定日本の力点の起き方は欧米と相違していました。1925年のラジオ放送開始にあたり、東京放送初代総裁の後藤新平によりなされた演説は、それをよく表しています。


我々は声を大にして強調したい。無線電話は決して享楽的事業ではありません、一時の遊戯気分や好奇心に駆られて、これに投ずるがごときはむしろ科学文明を冒涜する外道である。現代および将来における国家生活と社会生活とを支配する一大新勢力の勃興ーーそれがすなわちラヂオであります。したがって当局者も、ないし幾万のファンも極めて厳正なる意味において、新文明の利用に堪えゆべき倫理的、自治的自覚を有するや否や試験せらるべき場合に立っているのである。


15分間の演説の中で、後藤は何度も「倫理」や「道徳」という言葉を繰り返しました。ラジオを手にした日本は、何よりもその倫理的側面を気にかけていたのです。次にあげる欧米の放送パイオニアたちの言葉と比べると、そのトーンの違いに驚かされます。


(テレビは)この動乱の世界に希望の灯をもたらすアートであります。全人類の利益のためにその活用方法を学んでいかねばならぬ創造的力であります。この工業技術の奇跡は、いつの日か各家庭に世界をもたらし、また民衆の物質的福祉に奉仕するための新産業をアメリカにもたらすでありましょう。…(テレビは)アメリカの経済生活における重要な要素となるのです。――アメリカ「放送の父」デビッド・サーノフ、テレビジョン発表時の演説より(1939)



日々の苦しい生活に耐え、労働意欲を保ち続けるには、娯楽と気分転換は不可欠であります。放送の役割はここにあります。あらゆる層の国民の耳に、芸術的、精神的に優れた番組を届け、またそれと同時に新しい産業を興し、労働者と事務員に就労の機会を作り出す。その時はじめて放送は意義のあるものとなり、ドイツ国民の利益となるのであります。――初代ドイツ放送長官ハンス・ブレドウ、ラジオ放送開始に向けての内示(1923)


アメリカ、ヨーロッパ同様、日本文化もまた100年前の特性を維持しているとするなら、インターネットという新媒体に、まずは倫理という尺度をあてるのは自然であり、既存の倫理をリセットする匿名性の力に注目するのは必然と言えます。

---------

日本の匿名文化は倫理への過剰な意識から生まれたという推論は、日本の匿名文化にのみ見られる特異な傾向を説明できます。

欧米の匿名文化は、日本から「倫理/権威からの自由」という側面のみ輸入し、あらゆる権威に背を向ける、「ゆるいアナキズム」とでもいうべき性格を帯びています。しかし日本の匿名文化は、倫理の鎖を切断して得た自由で、周囲の不倫理を叩くという倒錯した傾向を持ちます。

また欧米では、「ゆるいアナキスト」たちの生み出す下劣で醜悪な言論に対して、実際に違法行為でも起こさないかぎり誰も特に問題視しません。しかし日本では、既存の倫理を否定する匿名文化は、それ自体大問題と捉えられがちで、喧々囂々の議論を呼びます。

アメリカはビジネスフェチ、ヨーロッパは政治フェチ、そして日本は倫理フェチ。倫理をめぐる議論はベタベタして辛気臭いですが、それも日本文化の宿命と、受け入れるしかないのかもしれません。

執筆: この記事はoribeさんのブログ『Meine Sache 〜マイネ・ザッヘ〜』からご寄稿いただきました。