89歳と82歳の多良姉妹「〈団地一人暮らしの日常〉動画で大人気に。人生振り返れば、家事も育児も介護も私の《自己表現》だった」
団地の暮らしを紹介するユーチューブが人気の多良美智子さんと、妹の多良久美子さんは、近況を伝えあう仲。戦争や家族との別れなどさまざまな苦境を乗り越えてきたが、それぞれ自分らしく80代の時間を充実させている(構成=上田恵子 撮影=林ひろし)
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8人きょうだい、戦中戦後も支えあう
美智子 私たちはちょいちょいLINE電話でおしゃべりしているから、久しぶりという感じはしないわね。私があなたの住む北九州に行ったり、あなたが私の住む神奈川県に来たり。去年も、元気なうちにと一緒に旅行にも行ったし。
久美子 いま私は82歳。みっこ姉ちゃんは89歳で、一人暮らしの日常をユーチューブで配信して人気だし、本も2冊出して。予想外の人生でしょう?
美智子 本当に。動画に皆さんからコメントやお手紙もたくさんいただいて。ありがたいことです。でも私はずっと「自分のように平凡な人間より、いろいろな苦労を乗り越えてきた久美子の人生のほうが本になる」と思っていたから、出版社の人にそう言ったの。
久美子 その結果、まさか私も本を出すことになるなんて思いもしなかった。仕事を辞めて、田舎暮らしをしている主婦ですから。
うちの息子は4歳のときに、麻疹(はしか)による脳炎で最重度の知的障がい者になって、いま56歳。あの子のことを触れずに本は書けないなと思って、飾らずにありのままでいいなら、と引き受けました。そうしたら思いがけず、たくさんの人に読んでいただいて……。
美智子 あなたは本当に、今日までよくやってきたわよ。妹ながら尊敬しています。苦労の連続なのに、笑顔を失わない。
幼き頃の美智子さん(左)と久美子さん。笑みがこぼれる(写真提供◎久美子さん)
久美子 60歳の頃かな、私も夫もずっと息子を支えてきたつもりでいたけど、じつは支えられていたことに気づいたの。「この子がいるから元気でいられるんだ」って。生きる目標とでも言うのかしら。大変なことも多かったけど、いまはそんなふうに考えているんよ。
美智子 うんうん。
久美子 でもそう言えるのは、きょうだいや友達など支えてくれる人が多かったおかげ。世話が大変で眠れなかったり、肉体的にキツいこともあったけど、みんなが精神的に支えてくれたので頑張れた。特にきょうだいね。普段はつかず離れずだけど、いざというときに力になってくれて心強かった。
美智子 うちは8人きょうだいで、私は上から7番目。久美子は末っ子で、私とは8歳違い。戦死した長兄以外は、女ばかり。あなたと、一番上の姉とは19歳違い。
久美子 人生でいくつか大変なことのひとつとして、戦争もあった。あれは、私が2歳、みっこ姉ちゃんが10歳のとき。
美智子 長崎に原爆が落ちた日のことは忘れられない。私は小学5年で、山のひとつ向こうに疎開していたので難を逃れた。市内にいた姉たちは命からがら逃げてきて、なんとか家族みんな無事で会うことができたの。ただ、一番上の兄は召集され戦死しました。
久美子 私は幼かったから記憶はないけど、戦中戦後は食べ物もなく一家は大変だったみたいね。
美智子 そういう経験もあるから、食べ物を粗末にはできないし、ものを大事にして、あるものでなんとかしようと思うのよ。
久美子 母は終戦の翌年にがんで亡くなった。姉たちが母親代わりで、私が子どもの頃は友達に、「うちには6人の母親がおる」って言ってた。(笑)
美智子 もう施設に入っているけど、98歳と96歳の姉が健在で、きっと長生きの家系なのね。戦争で兄を失ったし、日本の復興は大変なものでしたが、その後の平和のおかげで、長生きさせてもらっていると思う。
「家事にしても子どもの世話や介護にしても、振り返るとすべては私の《自己表現》だったんだと思う。家庭は自己表現の場だと思ってきたから、不満なんか感じなかったな」(久美子さん)
姉は一人が好き、妹は大家族が好き
久美子 母が亡くなったあとは、父が娘7人を育ててくれた。青果の卸売業から戦後は貿易会社を興して。
美智子 厳しくも優しい父は親分肌で、もてなすのが好きだった。あなたが高校生のとき、父が知人を助けるために借金の保証人になるというので、姉たちと止めたんだけど、説得できなくて。結局父の会社が倒産してしまったの。
久美子 私は自宅に差し押さえの赤札が貼られているのを見て、ショックだった。その後、姉たちが就職や結婚で次々と家を出ていって。私が19歳のとき、父が仕事中の交通事故で亡くなり、最後は私一人になっちゃった。その後24歳で結婚して家庭を持ったときは、ホッとしたんです。
美智子 私は子どもの頃から一人でいるのが好きだった。おしゃべりも上手じゃないし、一人で思い切った行動をとりがちだったわ。高校3年のときに「この家から飛び出したい。自活したい!」という思いがフツフツと湧いてきて、思い切って大阪の会社にタイピストとして就職。一人の生活を始めたときは嬉しかったなあ。
久美子 大家族が好きな私とは真逆ね(笑)。息子が障がい児になった50年前は、世間の理解も支援もまだ少ない頃で、私はかなり心細い思いをしていた。そんなとき夫の両親が「私たちも手伝うよ」と生活拠点を移し、この一軒家に一緒に住んでくれて、本当に助かった。
いま、近所には家族同然の友達もいるし、そういう意味では、私が望んでいた通りの《大家族》が続いていると言えるかも。ふだん息子は施設(生活介護事業所)で暮らしていて、土日に帰ってくるので、平日は86歳の夫との二人暮らし。
久美子さんは、小物からワンピースまでなんでも手作り
美智子 私は27歳で結婚しましたが、奥さんを亡くして10歳の娘を連れた夫との結婚は親族に猛反対された。でも、姉の一人が応援してくれて結婚できたの。その後、夫の勤務先が倒産したことで、住み慣れた九州から神奈川県へ。以来57年間、50平方メートル、3DKの団地住まいです。
久美子 みっこ姉ちゃんの子どもたちは、結婚して巣立って。
美智子 そう。娘と長男、次男を送り出し、9年前には大動脈瘤で倒れた夫を自宅で看取って。小さな団地に5人だったのが、いまは私だけ。家族が減って80代になって、自分だけの居場所を持てた。
久美子 振り返ると人生いろいろあった。だけど、二人ともまったくグチを言わないね。
美智子 本当にね。私はあきらめと切り替えが早いから(笑)。家族のなかではいつも従順に「そうね、そうね」と言っていたけど、ここぞというときは自分を出してきた。「自分はこうありたい、こんなふうに年をとりたい」と思った道を歩いてきたつもり。
久美子 私は美術学校に行きたかったけれど、父の会社の倒産で家計が大変だからあきらめました。でも結婚後、家事にしても子どもの世話や介護にしても、振り返るとすべては私の《自己表現》だったんだと思う。家庭は自己表現の場だと思ってきたから、不満なんか感じなかったな。
美智子 《自己表現》というのがいいじゃない。本当にそうだわ。
散歩、習いごと、料理で毎日充実しています (美智子さん)
「団地のおばあちゃん」の動画が人気を博して
久美子 みっこ姉ちゃんがユーチューブで「Earthおばあちゃんねる」を始めたのは4年前。たくさんの人が見てくれて、すごいね。
美智子 次男の息子の〈あーす〉と一緒に始めたんだけど、「動画があれば、私が死んだあとも子どもたちや孫たちが見て懐かしがってくれるだろう」くらいのつもりでね。友達にも言わずひっそり始めたものが、いまでは登録者数16万人以上。もうビックリです。(笑)
久美子 部屋を案内した「団地一人暮らしの85歳のおばあちゃんが部屋紹介してみた」がすごい再生回数だったのよね?
美智子 こんな古い団地の、おばあさんの日常をねえ。(笑)
久美子 あら、私はヒットすると思っていたんよ? こういう動画の多くは、みなさんすごくきれいに住んでいて、お台所だってピカピカ。その点、みっこ姉ちゃんのは、「これぞ生活、これぞ主婦!」という映像だったから、絶対にウケると思った。
美智子 へえ、そう(笑)。料理はね、近くのスーパーで買える材料しか使わない。粗食だから、本当に簡単なものしか作らないのよ。
久美子 それがいいんじゃないかな、現実味があって。
美智子 久美子だって80歳まで、地元の社協(社会福祉協議会)で働いていたじゃない。すごいわよ。
久美子 息子のことでお世話になってから、いろいろな方とご縁ができて。60代でピアサポーター(障がいを持つ当事者やその家族として、同じ立場の人の相談にのる仕事)を、70代で社協のライフサポート事業(地域福祉権利擁護事業)の仕事をしていました。
これは高齢者や障がい者など、自立した生活が難しい方々の生活や金銭の管理をサポートするお仕事。週に一度か二度、数時間だったけど、学ぶことが多くて楽しかった。いまは「障がい児・者の親の会」の相談役として、お手伝いしています。
<後編につづく>