「ビブレ」「サティ」はどこへ消えた?“愚策”だった「マイカルタウン」の新規出店攻勢
初年度は年間1,600万人が来場するなど成功したようですが、バブル崩壊でテナントが次々撤退し、すぐに衰退しました。最寄駅からバスで10分以上かかるなど立地が悪いことや、90年代に「みなとみらい21」の開発が進み横浜のレジャースポットが充実したこともマイカル本牧が失敗した要因です。
しかし何故かその後の投資も止まらず、マイカルはサティとマイカルタウンの新規出店を継続しました。1995年から99年にかけては桑名、明石、小樽など国内だけでなく中国の大連にもマイカルタウンを出店しています。初期投資額650億円を投じた小樽店は「ヒルトン小樽」と隣接する大規模モールですが、本牧店と同じく失敗し、後にホテルと共に経営破綻しました。立地の悪さという根本的な原因もさることながら、消費者のニーズをつかめなかったことがマイカルタウンの失敗につながったと言われています。不景気下で消費者が安さを求めているにもかかわらず、商品・売場構成に関してバブル期以前のやり方を継続していたようです。
マイカルの売上高は2000年に1兆円を達成するなど規模は拡大し続けていました。しかしマイカルタウンを主とする莫大な投資額に見合った収益を得られず、負債はどんどん膨らみました。1989年2月期末時点で1,566億円だった有利子負債は2001年2月期には1兆1,200億円にも拡大しています。
この間にマイカルは負債を減らすべく、事業ではなく市場から資金を確保しようとしました。95年から97年に行ったのがEB債(他社転換可能債)の購入です。大量にEB債を購入したものの、不景気でEB債の指定銘柄である銀行株が下落し続けており、むしろ多額の損失を被りました。設立した海外企業に金融商品を買わせる不正「飛ばし」で損失隠しを図ったものの98年には明るみになり、マイカルは信用を失いました。
EB債の他に、店舗物件の「証券化」による資金の確保も行いました。証券化の対象となったのは差入保証金からボイラーやダクトに至るまで店舗設備の様々な部分です。証券化で1,000億円近くを流動化し、98年2月期の決算はなんとか黒字化を達成しました。証券化自体は悪くありませんが、事業の改善には何の影響ももたらしませんでした。このようにマイカルは事業の失敗を資本市場でごまかそうとしたのです。
◆愚策だった「身の丈に合わない」投資
あの手この手で足掻こうとするも前述の通り有利子負債は1兆円を突破し、ついに手が回らない状態になりました。2001年9月には民事再生法を申請。民事再生のスポンサーがイオンに決定したことで何とか持ち直しました。しかし経営権はイオンへと移ります。
2003年にイオンはマイカルを完全子会社化し、2010年には約90店舗あった「サティ」の廃止とイオンへの変更を決定しました。翌11年にはイオンリテールに吸収されて法人としても消滅しました。現在では旧サティの全てがイオンに変わっています。ビブレはほとんどが閉店し、マイカルタウンも多くが規模縮小を経てイオンモールとなっています。
マイカルの失敗はひとえに言えば「身の丈に合わない」投資を行ったことに起因します。ビブレ、サティとGMSを成功させたものの、マイカルタウンのような大型モールを開発した経験はありませんでした。本牧の1店舗ならまだしも、本牧店の失敗が明らかとなっている段階で同じ業態を展開したのは愚策というほかありません。新規事業が上手くいかなければ撤退する……当たり前の判断ができなかったためマイカルは消え去ったのです。
<TEXT/山口伸>
【山口伸】
経済・テクノロジー・不動産分野のライター。企業分析や都市開発の記事を執筆する。取得した資格は簿記、ファイナンシャルプランナー。趣味は経済関係の本や決算書を読むこと。 Twitter:@shin_yamaguchi_