『虎に翼』ドラマでは描かれなかった寅子モデル・三淵嘉子の多くの人に愛された最期

写真拡大 (全3枚)

9月27日に最終回を迎えたNHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』。SNSには、一週間以上経った今も“トラつばロス”の想いをつぶやく人が後を絶たない。

最終回では、冒頭に寅子が15年前に亡くなったことが告げられ、その後の娘・優未の母とは異なる生き様を含め、『虎に翼』が半年間かけて伝えていた想いが凝縮する回となった。

ドラマでは、横浜家庭裁判所の所長になった寅子の姿までを描いているが、その後、どんな人生を描いたのだろうか。史実では、ドラマで描かれた後にも、いくつものドラマがあった。ドラマとしては最高のラストだったが、寅子のモデルとなった三淵嘉子さんはどのような晩年を過ごしたのか知りたいと感じる人も少なくないだろう。

寅子のモデルとなった三淵嘉子さんの史実を振り返るこの企画。前編『「虎に翼」であえて描かれなかった、寅子モデル・三淵嘉子のその後の人生とは?』に引き続き、『三淵嘉子の生涯 人生を羽ばたいた“トラママ”』(佐賀千恵美著/内外出版社)や過去の書物などを参考に、三淵嘉子さんが奮闘しつづけた姿を追う。

※以下、文中敬称略

「凶」のおみくじが予告した、予期せぬ病

昭和58年1月7日。嘉子は初詣に出かけた柴又帝釈天で人生初の「凶」のおみくじを引いた。信心深い母・ノブに育てられた嘉子は、若いころからおまじないや占いの類を好んでいたので、「凶」に驚き、不安な気持ちになったのだろう。わざわざ日記に記している。

しかしそのとき、自分に病魔が迫っていることに全く気が付いていなかった。このころすでに肺腺がんを原発とした、転移性の骨がんが体を侵食し始めていた。

「2月ごろから背中や肩がこって、病院に行ったり磁気を当てたりしたが、どうもよくならない。3月半ばごろから胸骨が痛く、すぐ胸に手を当てかばうようになった。身体を動かしたりすると痛く、体操で両手を上にあげることができなくなった」(嘉子の昭和58年4月30日の日記より)

昭和58年4月に検査入院。その後一時帰宅するが、体調不良と痛みが激しくなり再入院。7月にがん細胞が発見され、芳武は嘉子にそのことを報告する。今ではがん告知は本人に伝えられることが多いが、当時は本人にがんであることを伏せているケースも少なくなかった。しかし、芳武は嘉子から「自分の病状について分かったことは、すべて知らせて欲しい」と語っていたため、芳武は母にがんにかかっていると率直に知らせたのだ。

そのときのことを嘉子は日記にこう記している。

「私のママ(ノブ)も、ママのママ(祖母)も脳溢血で亡くなった。私も高血圧だから、死ぬのは脳溢血だと信じていた。自分は恐ろしいがんとは無縁だと信じていた。はずれた失望から、おかしく、口惜しい。それにしてもおかしかった。自分の独りよがりがこっけいだった。がんを宣言されたときは、全く『へぇー』という思いでした」(昭和58年11月13日 嘉子の日記より)

継子が語った、闘病中の嘉子の姿

この部分はドラマと史実は異なるのだが、再婚直後から子どもたちが成人するまで、嘉子と子ども(実子の芳武や乾太郎の連れ子たち)との関係は、決して円満とはいえなかった。しかし、嘉子は家庭裁判所で少年らと接するうちに丸くなり、子どもたちも成長することで、晩年、嘉子と継子らの関係は良好になっていた。退官直後には、乾太郎の長男・力夫妻とともに石川県を旅したり、病の床についた嘉子の世話を主にしたのは、乾太郎の三女・麻都(まつ)だった。

治療の抗がん剤の影響で、食欲がなくなった嘉子は、自分の食べられそうなものを考えては、麻都に「○○が食べたい。この次、持ってきてね」とよく甘えたという。しかし、せっかくリクエストに応えてくれた麻都に、嘉子がわがままを言うこともあった。その当時のことを麻都はこう振り返っている。

「なかなか母の思うとおりのものが見つけられず、私はよく叱られた。ラーメンが食べたいというので作ってあげれば『だいたい、病人に食べさせるのになによ、これじゃあ素ラーメン(具が入っていない)じゃないの!』と言われるくらいは、まだ序の口だった。御膳そばが食べたいというので麻布十番まで行って買ってきたことがある。母は、そのそばを見るなり『ああ、これはニセモノの方なのよ。あそこの路地を入って行った奥の方に本物の店があるのに…』と情けなさそうに私の方を見た」(追想の人三淵嘉子より 麻都の回想)

せっかくの義娘の好意を無にするような義母のわがまま。そんなエピソードを懐かしく語りながら麻都はこう続ける。

「(昭和58年)4月ごろになると、ほとんど何も食べられなくなってしまった。どんな憎まれ口をきこうと、文句を言おうと、少しでも食べてくれた時のことをずいぶん懐かしく思ったものである。母から見れば、私はできの悪い娘で、心配ばかりかけた親不孝者だったけれど、最後にあれだけ好き勝手を言い、甘えてくれたことで私は満足している」(同前)

痛みも激しく、食事さえとれなくなった病の末期ははたしかに辛いものではあっただろうが、実子の息子はもちろん、継子にもわがままが言え、それを許された嘉子の晩年は、愛に満ちた幸せなものだったといえるだろう。

病の床からも、日本のために公職復帰を願った

古くからの親友はもちろん、法曹界関係者も嘉子の見舞いにかけつけた。最初に来た人に嘉子が「がんなんですって」と伝えると、聞いた人がショックを受けてしまった。今では「2人に1人はがんに罹患する」ということが浸透し、がんに対する正しい認知も広がっているが、嘉子が闘病していた当時は、「がん=死」を連想する人が多かった。その後は「悪性なの」とマイルドに伝えるようにしたのだと、嘉子は女性弁護士の友人に冷静に語った。

昭和59年の1月。嘉子が座長を務めていた「男女平等専門家会議」で女性の雇用のあり方を話し合った際の報告がてら、嘉子を見舞った労働省職員の女性は、このように回想する。

「三淵先生は病床にありながら、私が報告した審議の内容に強い関心を持たれ、なかなか意見の一致をみないことを案じておられた。どこまでも働く婦人の職場での地位が、頭を離れないご様子だった。

三淵先生は『私は若いころ(エネルギーの)エネ子さんと呼ばれるほど元気だった。今まで休みなく働いてきたから、今はよい休養だと思っているの。しばらく休んだらまた元気になって、やるわ』とほほえんでおられた」(追想の人三淵嘉子より)

病魔に侵されながらも、嘉子の信念は揺るがなかった。日本国憲法第14条「すべて国民は法の下に平等であり、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」の条文にある通り、真の平等の実現のために力を尽くしたいという願いを抱き続け、復帰を望んでいたのだ。

しかしその願いもむなしく、昭和59年5月28日、三淵嘉子は人生に幕を下ろす。嘉子の最期に立ち会った乾太郎の次女・奈都とその夫は、人工呼吸器を装着し、苦しそうに体を波打たせる嘉子の姿に「見ていられない」と顔を背けた。しかし、「実の息子の芳武が到着するまでは」と、医師に人工呼吸を続けるよう頼み、芳武の到着を待った。

まもなく芳武が到着し、最後のお別れが終わると人工呼吸器は停止された。嘉子は静かに息を引き取った。先ほどの修羅場が嘘のように静かな顔であったという。

昭和59年6月23日。三淵嘉子の葬儀と告別式が、東京・青山葬儀場で行われた。2000人近くの人が嘉子との別れを惜しんだ。

亡くなった翌年に刊行された三淵嘉子の追悼文集『追想の人 三淵嘉子』は、嘉子の親族、友人、法曹界など、嘉子の生涯に様々なかたちで関わった約130名の文章が納められた。これほど多くの人々が、その死を悼み、追悼文集に寄稿したという事実こそが、嘉子が法曹界のレジェンドであり、いかに周囲から慕われ、愛されていたかを物語っている。「愛の裁判所」を育て、育んだ三淵嘉子は、自身の人生を精いっぱい生き、最後はみなに「愛される人」としてこの世を去ったのだった。

【参考文献】

・『三淵嘉子と家庭裁判所』(清永聡編著/日本評論社)

・『三淵嘉子の生涯〜人生を羽ばたいた“トラママ”』(佐賀千恵美著/内外出版社)

・『女性法曹のあけぼの』(佐賀千恵美著/ 金壽堂出版)

『虎に翼』であえて描かれなかった、寅子モデル・三淵嘉子のその後の人生とは?