人生100年時代と言われる現代。科学・医学の発達で寿命が延びる一方で、「老い」や「病」を必要以上に恐れる風潮もあるのではないでしょうか。登録者数67万人超えのYouTubeチャンネル「大愚和尚の一問一答」が人気の僧侶・大愚和尚は、「遊老学病」というオリジナルの禅語で、老いと向き合う心のもちようを発信しています。ここでは、「遊老学病」に込められたメッセージについてご紹介します。

禅の考え方から学ぶ「老い」への不安と向き合い方

科学・医学の発達で、不治とされてきた病気も克服できるようになり、寿命が年々延び、人生100年時代といわれています。医学は万能である、というイメージが先行しているせいか、「老病死」はあってはならないものとしてとらえられる傾向があります。

アンチエイジング商品も増えてきて、「60歳なのにこの若さ?」と老いを隠し、若く見えることを喜ぶ風潮に引きずられている人も多いのではないでしょうか。

しかし、生きている限り、老いを止めることはできないし、当然、病気にもかかります。
その厳然たる事実を、悲観的にとらえるのではなく、むしろ当然のこととして前向きにとらえる生き方が「遊老学病」です。

住職をしていると、お年寄りの方たちと接する機会も多いのですが、そのなかには、じつに自由に歳を取ることを楽しんでいらっしゃる方がいます。まさに老いを遊んでいるようで、「遊老」という言葉が頭に浮かぶのです。

さらに生きていれば病気と無縁ではいられません。しかし、そんな遊老人は、死を意識するような病気にかかることさえも、「生きる意味を問われ、精神力が鍛えられる」と言ってのけるから、さすがです。

老いを楽しんでいた90代のNさん

私自身、体を壊したことから学んだことがたくさんありました。ですから常に思っているのは病に学ぶ=「学病」ということ。「遊老学病」は、そんななかから生まれた大愚オリジナルの禅語です。

90歳を超えてなくなった檀家のNさんは、まさに老いを楽しんでいた「遊老」の人でした。用事があって家を訪ねると、お茶を飲みながら話してくださるのは、いつも「老い」の話で、

「いや、おもしろいものでね、ほんの1cmの段差にもなぜかつまずくんです」
「年を取るとおしっこのキレも悪くなるんですな」
などと、とても愉快そうに話してくれました。

「最近、電話が鳴ってもすぐにきれちゃうから、みんな、なんてせっかちなんだろうって思っていましたが、家内に“あんたの動作が遅いのよ”って言われましてね。そういえば、最近は、“よっこらしょっ”と立ち上がるのに時間もかかるし、電話のところまで行くのにもまた時間がかかっているんですね。動作がのろすぎて電話がきれていたんですな」と、“衰えネタ”で、笑わせてくれます。

また、70代、80代のおばあちゃんたちが「わたしら歳だからね! 3つ聞けば2つはきれいに忘れるわ」と笑い合っている姿を見ると、歳を取ることが悲観的なことではないと思えてくるのです。

「若い人たちに迷惑をかけたくない」という不安

しかし、「人生の折り返し点を迎え、先行きが不安です」「年寄りは社会の邪魔者だから、そんなに長く生きていても仕方ないですね」「若い人たちに迷惑をかけたくない、どうしたらいいのでしょう?」といった悩みがとても多いのが事実。

老いていくことや病気にかかることに不安を感じている人へ届けたいのが、この「遊老学病」という言葉です。

福厳寺のある地方都市では、農家のお年寄りたちは、畑に出て熱心に草取りをして、収穫物を物々交換して生き生きと老後を楽しんでいます。その一方で、仕事を引退し、老いを悲観しながら家にこもってばかりで、「遊老」できていない人もいます。

老いると、体力が衰えるので、周りからはなにもしなくていいよと言われがちですが、団地の花壇の草取りでも、水やりでも、なんでも買って出ればいいと思います。若い頃とペースが違っても、それが当たり前なのですから、悲観する必要はないのです。

どんな小さなことでも自分にできる役割や生きがいを見つけて、外と関わることができたら、見えてくる景色も変わります。

私も最近は老いを実感しています。物忘れをすることもありますし、子どもたちと一緒に走れば、彼らはハァハァ、こちらはゼェゼェ。でも、考えてみればそれも当然のことです。

私の師匠も若い頃から苦労をして、早くから総入れ歯になっているのですが、私が歯痛に苦しんでいる姿を見て、「おまえも早く歯がなくなればラクだよ、食べ物はおいしいし、手入れも簡単だし」と言っています。老いをネタにあっけらかんと笑えたら、老いる不安も吹き飛びます。

「遊老」の極意は、老いという、その人にとっての初めての肉体体験をおもしろがれる心の柔軟さに尽きます。前向きにとらえて、その気持ちを伝え合って楽しもうというじつに愉快な試みなのです。

また、生きていれば、当然、病気になることもあります。私は整体師を志し、15年間、体と向き合い、生理学、病理学を勉強しました。すると、以前は発熱したり、炎症を起こすのはよくないことだと思っていましたが、自分の命を守ろうとする大事な体の反応だということを知りました。

救急車で搬送され、生死の境をさまよった

体にばい菌が入ると、それ以上の繁殖を防ぐために体が発熱し、免疫細胞がばい菌を退治します。体からウミが出るのは、免疫細胞がばい菌と闘った末に出る死骸なのです。発熱や炎症はけっして悪いことではなく、生きるために体が闘っているサインであり、自分の体を見直す機会でもあります。

だから自分の体をしっかり観察して、少しでも体に異常があるときは、体を守る力を十分に発揮するためにも、休まなくてはいけません。

しかし、そのことを知る前の私は、栄養ドリンクの世話になってばかり。空手で鍛えているからと、自分の体を過信して、どこまでできるか自分の体にチャレンジするつもりで、ジェットコースターのように、大きな山場を登っては下り、登っては下りが延々と続くハードな毎日を過ごしていました。

そしてついに、救急車で病院に緊急搬送されます。血尿とインフルエンザで病院を訪れ、処方された薬がきっかけでアナフィラキシーショック症状を起こしたのです。あとで看護師さんに聞いたところ、心肺停止の寸前までいき、生死の境をさまよっていたそうです。

人生は根性だけではなんともならず、また体だけでもなんともならないことを思い知った出来事でした。

それ以降、私は、ひとりですべてを抱え込まず、任せられることは、どんどん人に任せることにしました。仕事も譲り、社長の職も譲り、その結果、私が現役のときよりもずっと売り上げが伸びたのです。

まさに病に学ぶ=「学病」を、身をもって体験したわけです。

老いも病も、心の機微を運んでくれる人生の道しるべ

病気で倒れることは負けではありません。病気は敵ではなく、自分の状態を知り、それまでの自分のあり方を見直し、「無理のないやり方に変えていけ!」という自分自身からの合図なのです。

老いも病も、さまざまな心の機微を運んでくれる人生の道しるべです。うとむことなく、目を背けることなく、きちんと向き合い、楽しんでしまうくらいのおおらかさが必要です。

少子高齢化が危惧される昨今ですが、私は、こんな時代だからこそ、お年寄りが街にあふれ、にこにこしながら、堂々と老いの姿を見せてくれるのがいい、と考えます。それがきっとこの社会が豊かであるという証しだと思うのです。

「病気に勝たなければならない、老いと闘い続けなくてはならない」などという価値観は「遊老学病」のお年寄りたちの笑い声で吹き飛んでいくといいですね。