看護師はやりがいはあったが自身で区切りをつけた(写真:尾形文繁)

アラフィフにしてアイドルとなった中原さくら。

30年続けてきた看護師を辞めてまで挑んだ芸能への道。

その背景には、看護師時代に感じた女性としての地位の低さ、そして自分自身でも声をあげるために何かできるのではないかというそんな想いだった。

55歳でなお夢へのチャレンジを続ける中原さくらに話を聞いた。

*この記事の前編:

中原さくらは30年間看護師として医療の現場に勤めていた。

仕事を続けながら趣味として宝塚歌劇団にハマり、自らもステージに立ちたいと願い40代後半で劇団ひまわりの俳優となる(前半記事参照)。

そしてエキストラながら俳優デビューすることとなる。

「看護師の仕事」から徐々にフェードアウト

エキストラとはいえ俳優として仕事をもらえた喜びに浸る中、世はコロナ禍に突入する。そして自らのことをいろいろと考えるようになっていった。

「いろんな考えがあると思います。コロナ禍で看護師としてたくさんお誘いを受けました。でも俳優としていつチャンスがもらえるかわからないですしね。それで徐々に看護師の仕事をフェードアウトしていったというのが正直なところです」

「強い決意」ではなく徐々にフェードアウト。人生としてある意味、そのような選択をする人のほうが多いのではないだろうか。中原もそんなリアルな生き方を選択した。

話は少し前後するが2020年に中原はアイドルオーディションを受ける。

それまでテレビ、映画などのオーディションを受けつつ、あるとき、SNSで「アラフォーアイドル輝けプロジェクト!」(以下、フォティプロ)の募集を見つける。

これはアーティストで数々のアイドルをプロデュースしているつんく氏が楽曲提供を行い、アラフォーアイドルたちが集うというプロジェクトだ。

「じつは募集を見る何年か前に40歳以上でアイドルをやっている人たちはいるのだろうかと思って調べてみたことがあるんです。やっぱりアイドルに憧れているところはあったので。それですぐにこれだと思って応募しました」

コロナ禍の真っ最中。オンラインなどでのオーディションは歌などのテストはなくまるで就職の面談のようだったという。

チャンスと思いとにかく自己アピール。

面談から1週間ほどした頃、メールで合格通知が届く。

「『あっ! 本当に(アイドル)やれるんだ!』って思いました」

まさか50歳を超えた自分がアイドルをやるなんて。自身で驚くも束の間、すぐにMVをつくるための「クラウドファンディング」が始まる。

「年齢を気にしない」メンタルの持ち主

全国からメンバーが集うプロジェクトのためコロナ禍では思うようにいかず、プロジェクトはオンラインで。自身はソロアイドルとしてライブハウスを中心に活動をスタートさせる。

「私の活動を知ってくださったライブハウスなどからお声がかかりソロアイドルとして歌い始めました。季節感を大事にして80年代アイドルのカバー曲がメインですね」


年齢のことは一切気にならないという強いハートの持ち主だ(写真:尾形文繁)

ライブハウスでの対バン(1人20分程度の持ち時間で数組アーティストが出演するイベント)ではアイドルとしてはもちろん、出演者内でも年長者となる。

若いアイドルとの共演は気にならないのだろうか。

「ずうずうしいかもしれませんが自分では年齢のこと考えないんです。それが伝わるからかお客さんも共演者の方も皆さん受け入れてくれますね」

年齢のことは考えない。

だから「この歳でアイドルなのか」というようなアンチの意見もまったく気にならないという。

このメンタルこそが中原の強みなのだと感じる考え方である。

人生も折り返し地点。中原はいったい、今後の人生をどう描いているのだろうか。

「目の前のことに全力投球なんですが、一番はMCに憧れています。阿川佐和子さんのような方になりたいなと。憧れますね」

今は自身がMCを務めるインターネットテレビでゲストを招いてのトークを行うなど一歩一歩進んでいる。もちろん、ゲストもほとんどは自分より年齢は年下になるが芸歴は上の人ばかりとなる。

「人によっては若い人に頭を下げたくないとかあるかもしれませんが、私はフラットに年下であろうと(芸歴での)先輩は先輩だと思っています。年齢ではなく自分より何かをできる人を尊敬しています」

「自分よりも何かをできる人を尊敬する」

すがすがしいまでに今の自身の立ち位置を把握している。

看護師時代に感じていた「ふとした違和感」

中原が自身の立場を俯瞰できるのには看護師時代に感じたことが大きく影響していた。

「私が看護師を始めた頃は女性が圧倒的に多い仕事でしたし。でもそこで同じ仕事を男性がやると対価が違うんだろうなと思って。当時はドクターも男性が多く、意見できませんでした。仕事には不満がなかったけれど女性の地位が低いなと感じた頃があったんです」

確かに今でこそ看護師ではあるが少し前まで看護婦という女性の職業ワードで語られていた時代はあった。だからこそ女性の声を届けたかったという。

「私は今、この年齢でアイドルをやっているというだけでバッシングを受けることが実際あります。まだまだ女性の声が届けられないからこそアイドルと言う形で女性の声を届けたいなという思いもあります」

加えて中原は純粋にアラフィフとしての自分自身がアイドルであることに関しては、実にアイドルらしい考えも持っている。

「自分自身がこれまでアイドルにたくさん元気をもらっていたなという思いがあって、それって看護師と実は通じるところがあるんですよ。だから私はみんなに病気になる前に元気でいてほしいっていう気持ちで今やってます」

まったく違う2つの職業であるが中原の中ではしっかりつながっていた。

「歳に関してはこの年齢だからこそカラダに鞭打って頑張ってます、というのが伝わればいいなと思ってやってます。同時に年齢を重ねるとチャレンジしにくくなるけど、中高年でももっと自由に活動していいと思うんです」

年齢をオープンにしているからこそ、アイドルとして伝えられることがある。50歳を過ぎた今だからこそ、自由に好きなことをやる。なかなかできることではない。

「おこがましいですが、私を見てくれて同世代の方が勇気をもらって、自分の好きなことをやる人たちが増えてくれたらいいなと思います」

ただアイドルをやるのではなく、中高年に夢を与えられるアイドルになる。アラフィフアイドルであるからこその一言だ。

アイドルとして「父の曲」を歌う日

そんな中原は作曲家である父に曲を依頼し近く発表するそうだ。

「父も喜んでくれてますし、しっかり歌っていきたいですね! アイドルソングというよりはやっぱり歌謡曲な感じなのですが」

若い頃は考えもしなかった父の曲をステージで歌うということ。55歳にしてかなえる親孝行。「曲を作ってほしい」と話をしたときの父は笑顔だったという。

これからソロアイドルとしてさまざまなステージでその曲を歌うことになるだろう。そして、それが自身の代表曲になるべく動く。

つねに新しいことを吸収して、自身が夢見たステージに立てるその日までアラフィフの希望となるべく中原さくらの挑戦は続いていく。


アイドルとしてはもちろん俳優としても活動の幅を広げている(写真:尾形文繁)

(松原 大輔 : 編集者・ライター)