私たちが感じる時間の一方向性、つまり「時間がなぜ一方にしか進まないのか?」という問いは、統計力学によって説明できる可能性があります(写真:Simple Line/PIXTA)

「重力はなぜ存在するのか?」という問いは、物理学の歴史の中で極めて重要な役割を果たしてきました。数多の物理学者がこの謎に挑み、自然界の基本的な法則や宇宙の構造を解明していったのです。

カルフォルニア大学バークレー校教授で、素粒子物理学や宇宙論を専門とする野村泰紀さんも、そうした謎に挑む1人です。本稿では、野村さんの最新刊『なぜ重力は存在するのか』からの抜粋で、「時間はなぜ一方向にしか進まないのか」という謎について、物理学的な視点からの考察を紹介します。

時間はなぜ一方にしか進まないのか?

物理学の一分野である統計力学は、時間の性質について重要な示唆を与えてくれます。時間の進行が統計的な性質によるものだと考えることができるのです。

ニュートン力学、相対性理論、量子力学は、時間の前後を区別しません。すなわち、時間の方向性の概念は入っていないのです。

これに対して、私たちが感じる時間の一方向性、つまり「時間がなぜ一方にしか進まないのか?」という問いは、統計力学によって説明できる可能性があるのです。

時間の方向性を考えるうえで大切なのが、「エントロピー」という概念です。エントロピーとは乱雑さや無秩序さを示す尺度です。自然界の事象はエントロピーが増大する、無秩序な方向に進みます。

たとえば、正確な例ではないのですが、部屋は時間が経つと、どんどん散らかっていきます。汚い部屋が時間の経過とともに自然に片付いていくことはありません。これはつまり、きれいな部屋から汚い部屋への一方向性があると考えられます。

別の例を出すと、たとえば、水の入った水槽に赤いインクを垂らすと、インクは時間とともに水全体に広がり、水全体がピンク色に染まります。しかし、いったんピンク色になった水が再び透明になって、インクが1カ所に集まることはない。つまり、時間の方向性が生まれているように見えるわけです。

この現象をミクロにみれば、インクの分子が水の分子と衝突しながら広がっているだけです。単に分子の衝突がランダムに起こっているだけで、そこに何らかの方向性があるわけではありません。

インクを入れた水が透明に戻らない理由

理論上は、いったん水の分子の中に拡がったインクの分子が、たまたま再び1カ所に集まることもあり得ます。

しかし、当然ですが、インクが再び集まるというのは現実世界ではまず起こりませんよね。これはなぜかというと、ランダムに衝突が行われるとき、インクが集まって見えるパターンに比べて、水全体がピンク色に見えるパターンのほうがはるかに多いからなのです。

単純化して考えてみます。たとえば、4×4に分かれた正方形で、インクの分子が左上に4個、それ以外のところに水分子が12個あるとします。そして、時間の経過とともに、隣り合った分子がランダムに入れ替わっていくとします。

しばらく時間が経つと、インクの分子がばらばらに分かれていくはずです。このとき、理論上はスタートと同じくインクの分子が4個固まった状態に戻る可能性もありますが、それよりもインク分子がばらばらに分かれる、つまり、ピンクに見える方向に進む確率が圧倒的に高くなります。


(イラスト:『なぜ重力は存在するのか 世界の「解像度」を上げる物理学超入門』より)

実際のところ、水の入った水槽には、12個どころではない水分子が存在しているので、赤いインクの分子が1カ所に集まる確率はもっと極端に低くなります。このように、統計的に見たときに、進みやすい方向に進んでいくというのが「時間の方向性」を表していると考えられるのです。

この概念を老化に当てはめると、体が若いままでいるよりも、老化した体に対応するパターンのほうが圧倒的に多いから、人間は必ず老いていくと考えられます。

太陽や星も同じです。超新星爆発を起こすなどの最期を迎える方向に向かっていくほうが、対応するミクロのパターンが多いのです。

ということは、こうした動きを制御して、無秩序に向かっていく方向とは逆の方向へと進ませることができれば、実質的に時間を巻き戻せるということです。

ただし、これをミクロなレベルで完全に制御するのは極めて難しいため、実際にはほとんど不可能だというだけなのです。

エントロピーと対を成す概念がエネルギーです。エネルギーは「保存の法則」によって、常に保存されています。

たとえば、ボールを押し出して転がすといつかは止まりますが、これはエネルギーが消滅しているわけではなく、摩擦によって、運動エネルギーが熱エネルギーに変換されているだけであって、エネルギーの総量は変わりせん。

なので、「エネルギーを節約しましょう」というのは、物理学的に見るとおかしいのです。エネルギーの総量は変わらないので、節約も何もないわけです。

ただし、エネルギーの総量は変わりませんが、エントロピーは増えていきます。エントロピーが小さい状態だと、エネルギーは秩序のある形で存在しているということなので、より利用しやすくなります。

一方、エントロピーが大きな状態だと、エネルギーは無秩序に存在しているので、利用しにくくなってしまいます。

なので、私たちが「エネルギーを節約しましょう」と言っているときは、実は「エントロピーを上げないようにしましょう」と言っているということなのです。それが物理学的に言う「エネルギーを節約する」という意味です。

エネルギーを効率よく使うためには、なるべく秩序ある状態にとどめ、エントロピーの小さい状況にしておくことが大切なのです。

元々は産業革命期に「蒸気機関を効率的に活用するためにどうすればいいか」という社会からの要請で生まれた熱力学が、統計力学へつながり、それが時間という、私たちの世界の根源的な仕組みにも絡んでいるのは不思議で興味深いことです。

「時間が進んでいる」についての考察

統計力学的な考え方を元に、もう少し時間について考察していきましょう。

たとえば、先ほどの水とインクの例でいうと、インクを水に垂らして、それが広がって、水全体がピンク色に染まるとき、私たちは時間の経過を感じることができます。

でも、水がピンク色に染まったあと、ずっとその状態から変化がないように見えるとき、「時間が進んでいる」といえるでしょうか。

実際には、同じピンク色に見えていても、分子レベルで見ると、水分子とインクの分子は絶えず動いているので、そういう意味では、時間は流れています。しかし、私たちはその動きを認識できない。……なんだか話が複雑になってきました。

つまり私たちが通常「時間が進んでいる」と呼んでいるものは、マクロな世界に統計的に表れているものにすぎないのではないかということです。

赤いインクを垂らして水がピンク色に染まっていく過程に私たちは時間の一方向性を感じるけれど、実は、単に分子が方向性も何もなくランダムに入れ替わっているだけで、(可能性は極端に低いけれど)インクを垂らした瞬間の状態になることもある。

ピンク色に染まり切った水に私たちは時間の経過を感じないけれども、実は分子レベルでは状態は常に変化し続けている。

「時間が進んでいる」と感じているだけ


このように、視点を変えると、根本的なレベルにおいて「時間の一方向性」は存在していないことに気づきます。

私たちは、統計学的に起こりやすい方向、つまりエントロピーが増大する方向に進んでいくことを「時間が進んでいる」と感じているだけなのです。

こういった視点から見ると、時間の流れの一方向性が単なる人間の認識であり、実際には存在しないという見方ができます。時間に方向性があると感じるのは、私たちが世界を認識する仕方に伴う結果なのです。

ここに私は統計力学の面白さを感じます。

相対性理論や量子力学に基づいた時間の遅れや重力の話はたしかにワクワクします。しかし、時間の根源的な謎に迫ろうとすると、全体の動きを大まかに把握する統計力学が必要になるのです。

(野村 泰紀 : カリフォルニア大学バークレー校教授)