70回目を迎えた京橋駅慰霊祭 多くの人が焼香した〈2024年8月14日 午前11時55分 大阪市城東区〉

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 太平洋戦争の終戦前日、アメリカ軍による最後の大阪大空襲で多くの命が奪われた「京橋駅空襲」。8月14日午前、惨劇から79年を迎え、被災者慰霊祭が大阪市城東区のJR京橋駅南口にある慰霊碑前で営まれた。

 慰霊祭は1955(昭和30)年に始まり、70回目となった。

子どもたちが平和のシンボル・鳩を掲げる京橋駅前のブロンズ像 1984(昭和59)年に地元・大阪城東ライオンズクラブが寄贈、2021(令和3)年春に慰霊碑のそばへ移設された
70回目を迎えた京橋駅慰霊祭 多くの人が焼香した〈2024年8月14日 午前11時55分 大阪市城東区〉

 1945年(昭和20年)8月14日、米軍のB29爆撃機145機が来襲(第8次大阪大空襲)。ターゲットは大阪城の敷地内にあった大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)。6万5000人が動員された東洋一の軍需工場と呼ばれていた。

いまや廃墟と化した大阪砲兵工廠
太平洋戦争の敗戦まで、大口径の火砲などの兵器を製造したアジア最大規模の軍事工場だった

 B29爆撃機は650発もの爆弾を次々に投下、造兵廠一帯は壊滅的な被害を受けた。その際、1トン爆弾が近くの国鉄京橋駅を直撃し駅舎は吹き飛んだ。

 身元が判明した死者は210人、実際の犠牲者は500人〜600人と推定されている。

京橋駅空襲による森ノ宮一帯 ※画像提供・照屋盛喜さん
大阪大空襲は1945(昭和20)年3月13日〜8月14日まで8回にわたった ※画像提供・照屋盛喜さん

 参列した人々は、ロシアによるウクライナ軍事侵攻や、イスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃、台湾有事への懸念、という世界情勢のもと、参列者は平和への思いを誓い、改めて核廃絶を願った。

 終戦から79年が経過し、空襲被災者の高齢化が進む。

 この日の大阪の気温が38〜39度と今夏最高と予想され、炎天下での慰霊祭ということもあり、体調を鑑みて参列を自粛した人も多い。開催前から「体力的につらい」と、参列を見送り、当日は自宅で手を合わせたい」という遺族も増えたという。

大阪市立旭東中学校生徒によるメッセージ朗読
若い世代に戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えていく 終戦80年を前に改めて考える機会に

 慰霊祭世話人会(大阪市旭区)によると、空襲被災者や遺族へ送付した案内状はのべ約400通。来賓を含め約半数の200人が参列した。

新たに作成したポスター 記憶を未来につなぐために ※画像データ提供・妙見閣寺

 今年(2024年)は、特に70回目の節目ということもあり、世話人会ではオリジナルポスターを作成、奉納された千羽鶴が飛び立つイメージをデザインし、戦争の記憶を未来につなぐ思いを新たにした。

 参列した兵庫県西宮市の男性(79)は、生まれて1か月後に太平洋戦争が終わった。「なんと無情な日なのかと思う。終戦があと1日早ければ、新たな犠牲者は生まれなかったはず。この事実をしっかりと受け継がなければ。来年は終戦80年、昭和100年にあたる。記憶を語り継ぐ人も少なくなっているのだから」と話した。