大作映画になりそうなスケールとリアリズム 『海神の子』(川越 宗一)
『海神の子』、鄭成功をモデルとした大スペクタクルである。中国人の父と日本人の母の間に生まれた鄭成功がいかに生きたか。いや、いかに生きざるをえなかったか。
歴史小説と時代小説というジャンル分けでいくと、その中間ということになるだろう。歴史小説というのは、ある人物や事柄について史実に忠実に書かれた小説である。それに対して、時代小説は、ある時代を背景として主に架空の人物や事柄を描いたものだ。
主人公の鄭成功はもちろん実在の人物である。『広辞苑』によると「明末の遺臣。鄭芝竜の長子。原名は森。母は肥前平戸の人、田川氏。父の海上勢力を継承し、廈門を拠点として清朝に抵抗。1661年、オランダ人を破って台湾に本拠を移すが翌年病没。南明の皇室から国姓の朱を賜り国姓爺と称す。近松門左衛門作『国性爺合戦』により『和藤内(和唐内)』の名でも親しまれる。(1624~1662)」とある。小説の内容はこれにのっとっているが、それを彩るために創作された登場人物や出来事も多い。
世界史で学んだことがあるというくらいの人がほとんどかもしれない。が、文楽や歌舞伎を知る人にとっては近松門左衛門の名作『国性爺合戦』の主人公としての方がずっとお馴染みだ。大明国を再興せんと、鄭成功、またの名を国性爺あるいは和藤内が大活躍する荒唐無稽と言ってもいいような筋立てである。「千里が竹虎狩りの段」がよく演じられるが、大立ち回りの末に和藤内の母が伊勢神宮のお札をかざしたとたん虎がへなへなっとなってしまうところなどまるでマンガだ。
しかし、この『国性爺合戦』、初演時には三年越し十七ヶ月という空前のロングランを記録したというからすごい。日本名を福松、長じて中国に渡ってからは鄭森という名であったが、皇帝から国姓を賜った。また、和藤内という名は、今なら人権問題になりそうだけれど、「和(日本)でもない藤(唐=中国)でも内(ない)」という、その生まれからつけられたものだ。ともあれ、誰も見たことのない大陸で日本人の血を引く若者が大活躍する物語に、江戸時代の民衆は大喜びしたのだろう。
一向に上達しないのだけれど、この十年ほど、文楽の語りである義太夫を習っている。それもあってよく文楽鑑賞に赴くのだが、その折には橋本治の『浄瑠璃を読もう』(新潮社)をバイブルにしている。人形浄瑠璃の三大名作である『仮名手本忠臣蔵』、『義経千本桜』、『菅原伝授手習鑑』をはじめ、八つの代表的戯曲が紹介されている本だ。そのひとつが『国性爺合戦』で、橋本によると、この作品は「一貫してスピーディーな物語展開を見せる『アクションファンタジー大作』」ということになる。『海神の子』にもそのままあてはまる言葉ではないか。いや、それどころか、アクションファンタジー大作としては、そのスケールの大きさとリアリズムから『海神の子』に軍配を上げたい。
浄瑠璃でよく描かれるのは、主従、師弟や夫婦・親子関係の大切さだ。「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」と言われるように、最も重きがおかれるのは、前世、現世、来世の三世にわたるとされる主従関係である。だから、主のために切腹するとか、罪のない子を殺めるとかいうような無理筋の話がいくつもある。この小説でも、鄭成功を起点とした主従関係が数多く出てくる。そこには信頼があるだけでなく、憎悪があり、裏切りがある。信頼よりも裏切りの方が面白く読めてしまうのは私の性格が悪いせいかもしれない。とはいえ、海賊仲間たちとの大活躍、幼なじみとの友情など、つい『ONE PIECE』の主人公・ルフィを思い浮かべたりして、何だかうれしくなった。
スプラッタムービーのような殺戮シーンが全編を通じてたくさん出てくる。字義どおりの血生臭い話は苦手なのだが、ほとんど気にならなかったのが不思議である。あまりに壮絶すぎるせいかもしれない。しかし、そんな中、科挙を受験するために教えを乞うた実在の人物、かつての明の高官・銭謙益の存在は心を和ませてくれる。師弟というのも主従と同じく三世の仲であるから、その関係は深い。おそらくは創作なのだろうけれど、ジャッキー・チェンの映画『酔拳』の師匠を好色に、そして、金に意地汚くしたような人物像が面白すぎる。さらに世知にも長けており、頭脳も極めて明晰だ。銭だけでなく、登場人物の造形がどれもユニークなのがいい。こんなことする奴おらんやろ~、と言いたくなるようなケースもなくはないが、その人物の生まれ育ちを知ると、そういった判断や行動もありかと納得させられてしまう。
幼いころから両親と離れていたため、親の愛情に恵まれて育った訳ではなかった鄭成功。それだけに、二世、一世の関係である妻や子ができたことにより、いろいろな考え方が変わっていく。しかし、実の親である海神との関係は凄惨を極めるものになる。明を滅ぼした清への服従を迫られ、剣を交えるにいたるのだから。両者の運命やいかに?
先の橋本の本によると、近松門左衛門の作品の特徴は、「非情を語ることによって、そこに存在するはずの情を暗示する」ところにあるとする。まさにその通りのシーンだ。近松的にいくと、この本のクライマックスここにありと思うのだが、著者の川越宗一は同意してくださるだろうか。
もうひとつ付け足しになるが、浄瑠璃でよく出てくる筋立ては、「○○、じつは△△」というものだ。たとえば、凡庸なおやじが、かつては源氏の強者であった、とかいうようなことが明かされ、物語の最後で「え~、そうやったんか!」と驚かせてくれたりする。『海神の子』では、鄭成功の「父」、鄭芝龍の存在がそれに似たところがある。序章――元々は川越にとって初めての短編だった――で解説されているので、どんでん返しという訳ではないけれども、その設定が意外すぎる。最終的には三人の「鄭芝龍」が登場することになるのだが、こういったひねりがなければ、全体の面白みがずいぶんと減じてしまっていたことだろう。あるいは、名と実の違いといったものがこの本の隠れたテーマであるのかもしれない。
スペクタクルばかりを強調してしまったけれど、この小説の本題はそこにない。国姓爺・鄭成功がどうして海賊として海に生き続けたか、である。国姓を賜るシーンでは、親と決定的に対立してまで新帝に据えた隆武帝、唐王・朱聿鍵に「朕を扶け、国家を安んぜよ」と命じられる。その時、心によぎる言葉、
「自分の周りには、誰もいない。中華の皇帝、数多の朝臣、蛟、鄭家の者たち。どれだけいても、ひとりだ」
は、あまりに哀しい。後に台湾で一戦を交え敗れたオランダ総督が、「勝てるはずがない清と戦い続ける気力もさることながら、その旗のもとには、なぜか人が集まり続けている」と評した国姓爺なのに、なぜにそれほどまでに孤独だったのか。物心ついた頃から海賊として生きるしかなかった福松、自分の居場所とアイデンティティーを追い求める人生であった。そのためには、どこまでも行くことができる海に生きるしかなかったということか。
「今から三百年ほど前の日本は、既にハリウッド大作映画並みのものを作り出していたというところだろうか」
これも、『国性爺合戦』を賞する橋本治の言である。『海神の子』も大作映画になりえそうだ。ただ、あまりにスケールが大きいストーリー、登場人物たちがとてつもなくダイナミックすぎて、配役を誰にするかが難しすぎるかもしれないが。