壊れ始めていた肘「何かチクッと」 初回から作る肩…阪神左腕の後悔「無防備でした」
田村勤氏は1年目から50登板…後半から抑えの練習に取り組んだ
元阪神左腕の田村勤氏はプロ1年目の1991年シーズン後半から大石清投手コーチに言われて「抑え投手」の練習をスタートさせた。中村勝広監督率いる、この年の虎は開幕5連敗を喫するなど最下位街道をひた走る苦しいシーズン。7月終了時には首位から22ゲーム差をつけられ、後半は翌年にらみの闘いにならざるを得なかった。そんな中、田村氏が忘れられないのは中日の主砲・落合博満内野手に食らった一撃。「“神”だと思いました」という。
田村氏の1年目の成績は50登板で3勝3敗4セーブ、防御率3.77だったが、シーズン前半と後半では立場はかなり変わった。8月上旬からは、翌年の抑え役をイメージして起用された。大石コーチからも「抑えの練習をやるぞ」と言われたそうだ。「聞いた時は、僕が抑えでいいのって思いましたよ、でもやるしかない。まぁええわ、はったりも必要やんってね」。実はこの頃から肘の状態は万全ではなかったという。「調子はよかったけど、何かチクッとするなぁってね」。
結局1年目は中継ぎ、抑えにフル回転したが、特に前半戦はなかなかのハードワークでもあった。「初回で先発ピッチャーがつぶれるなんてことも、けっこうありましたからね。だから初回から肩を作っていましたよ。ブルペンでの投球数は無茶苦茶多かったですよ。ブルペン完投みたいでした。あの時はきつかったですねぇ。でも当時は2イニングくらい投げるのは普通。阪神のピッチャーはみんな若かったし、僕も肘が壊れるなんて意識はなかったんですよねぇ」。
1年目前半の過酷さは後に響くことになるが、当時は全くそういうことが頭になかったという。「社会人までに痛めて苦労したとか、あまりなかったんでね。体は丈夫と思って無防備でした。あの時、ケアしていればよかったなとか、可動域を広げていればよかったなとか反省点はすごくありますよ」。田村氏の特徴として雄叫びを上げながらの投球があるが「それも最初は痛みを我慢できずに“あーっ”て言ったんじゃなかったかなぁ」と苦笑した。
1年目後半の“抑え練習”は、前半に比べれば初回から肩を作ることもなくなったし、そういう意味ではよかったかもしれないが、起用される場面は当然、神経をすり減らすシーンが増えた。その間も3イニングを投げたりするケースもゼロではなく、疲労度は増した。「でも、練習することは好きだったんでね、僕は」と肘に違和感がありながらも、そんな様子をかけらも見せなかった。抑え指名を意気に感じて取り組んだ。「落ちるボールの練習もしました」。
中日・落合に浴びた逆転弾「もう神ですよ」
8月7日の巨人戦(東京ドーム)で、2-1の6回途中から3回1/3を投げて打者10人に無安打3三振無失点。完璧リリーフでプロ2セーブ目を挙げた。8月17日の広島戦(グリーンスタジアム神戸)では、3番手で3回1/3を無失点でプロ初勝利もマークした。どんどん精神的にもタフになっていったが、失敗もまた多かった時期でもある。なかでも「あれはいまだによく覚えています」と口にしたのが9月28日の中日戦(ナゴヤ球場)だった。
8-6の8回途中から登板し、中日の4番打者・落合に逆転3ランをぶちかまされたことだ。「あれはすごかったですよ。インコースギリギリのギシギシのインローですよ。決まったぁって思ったところから、バットがビューっと出てきて持っていかれたんです。落合さんの場合、ヘッドが出てくるのが遅いんです。もう神ですよ。神の領域ですよ」。そもそも阪神ナインも練習の時から落合にうなり声をあげていたという。
「落合さんは試合前の練習で、ファースト、セカンド、サードのベースに打球を当てていた。阪神の選手もすごいなぁってみんな見ているわけですよ。見てて芸術ですもん。もう尊敬というより『あっ、神や』って感じでした。まぁ、それでは試合でも打たれますよね。僕もホームランを打たれて、落合さん、落合さんってみんなが言うのもわかるわーって思いましたもんね」。
そんな“落合経験”も含めて、田村氏は投げて、投げて、学んで成長していったのだが「あの頃は投げれば、投げるほど体も強くなると思っていましたからねぇ。アイシングとかもそんなに確立されていなかった時代ですから……」と、また悔しそうに話した。無理もない。首脳陣の期待通り、開幕から虎の守護神になった2年目(1992年)は前半戦に大躍進しながら、まさかの……。悲しいかな、怪我との闘いの日々が待ち受けているとは全く予想できていなかった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)