紫式部と藤原宣孝の結婚生活はどのようなものだったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「紫式部は正妻ではなかったので、一人で子どもを育てた。心の安寧を得られるような日々ではなかったが、その日々が糧となり偉大な作家になったといえる」という――。
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俳優の吉高由里子さん - 写真提供=共同通信社

■NHK大河で紫式部が激怒した夫・宣孝の行動

まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)の夫となった藤原宣孝(佐々木蔵之介)の言動に対し、視聴者の「デリカシーがなさすぎる」という声が目立つという。NHK大河ドラマ「光る君へ」の話である。

その場面は、第26回「いけにえの姫」(6月30日放送)で描かれた。まひろから受けとった手紙を、宣孝がほかの女性に見せびらかしていたことが判明し、まひろが激怒したのだ。

この時代、貴族の男女はことあるごとに手紙でやり取りした。まず、男が歌を詠んで、メッセージを添えて女に送る。女はそれが気に入ったら返歌を詠み、やはりメッセージとともに送り返す。夫婦になるのは、そんなやり取りを重ねたあとであるのが普通だった。

したがって、宣孝は紫式部から受けとった手紙を何通も所有していたことだろう。それをある女に見せたと、宣孝みずから、まひろに話した。むろん、なんら悪気はない。

まひろは、手紙を見せた相手はどんな女なのかと問い詰め、2人の秘密を知らない人に見られるのは恥辱だと訴える。また、見せられた側もいい気はしないはずで、そんなこともお考えにならないのか、と宣孝を詰問した。

ところが、宣孝はまひろが怒る理由がわからず、「お考えにならないどころか、誉めておった」と、火に油を注ぐ返答をするのである。

■史実に残る「夫婦喧嘩」

宣孝は、まひろが優秀であることを自慢するために、みんなに手紙を見せているという主張だが、まひろはますます納得できず、送った手紙はすべて返してほしい、そうでなければ別れる、とまで言い出す。

そして、自分の体に触れようとする宣孝に「おやめください!」と言い放つ。さらに「難しい女だ。せっかく誉めておるのに。またな」という宣孝に、これまで自分が送った手紙を全部持ってこなければ「お目にかかりません」とまで言い返した。

じつはこの夫婦喧嘩、紫式部が晩年に自分の歌をまとめた『紫式部集』のなかに、2人が結婚してそれほど経たない長保元年(999)正月のエピソードとして登場する。そこにはこう記されている。

「文散らしけりと聞きて、『ありし文ども取り集めておこせずば、返りごと書かじ』と、ことばにてのみ言ひやりたれば、みなおこすとて、いみじく怨じたりければ、正月十日ばかりのことなりけり(私が送った手紙を人に見せていると聞いたので、『これまで送った手紙などをすべて返してもらわなければ、もう返事は書きません』と、手紙で伝えたところ、『すべて返します』と言いながらも、かなりの恨み言を言ってきました。それは正月10日のことで、歌を送りました)」。

紫式部が送ったのは、こんな歌だった。

「閉じたりし 上の薄氷 解けながら さは絶えねとや 山の下水(冬のあいだ氷に閉ざされていた谷川も薄氷が解けるように、夫婦仲も打ち解けていたのに、山に流れる下水が途絶えてしまうように、2人の関係が絶えてもいいのですか)」

■言葉の応酬で紫式部に勝てるはずもなく…

史実では手紙を介在していたことが、「光る君へ」では対面でのやり取りとして描かれることが多い。しかし、それはテレビドラマの性質上、仕方ないだろう。ともかく、紫式部の怒りの手紙と歌に対して、宣孝は夜遅くなってから、紫式部から送られた手紙を届けにきて、そこにこんな歌を添えていたという。

「東風に 解くるばかりを 底見ゆる 石間の水は 絶えば絶えなむ(春風で氷が解けるように、私は手紙を返すけれど、貴女には谷川の底が見えるように、石のあいだを流れる水ほどの浅い気持ちしかないなら、2人の関係は絶えてしまったっていいですよ)」

しかし、ドラマのように対面となるとわからないが、言葉の応酬で、宣孝が紫式部にかなうはずもなかった。紫式部は宣孝を軽くあしらうように、こう送った。

「言ひ絶えば さこそは絶えめ なにかその みはらの池を つつしみもせむ(もう手紙も書かないというなら、そうして関係が絶えてしまっても結構です。どうしてそんな『みはらの池』でもないのに、腹を立てる貴方に私が遠慮しなければいけないのでしょうか)」

その結果、宣孝は夜中になって降参し、こんな白旗のような歌を送ってきた。

「たけからぬ 人数なみは わきかへり みはらの池に 立てどかひなし(気が強くなく、人並み以下の私は、湯が沸騰するように『みはらの池』に波を立てたところで、なんにもなりませんので)」

■4番目の地位

これらのやり取りを言葉どおりに解釈すると、夫婦のあいだにかなりの緊張が走ったようにも読みとれるが、おそらくそうではない。この当時、貴族の男女間では、「歌」による言葉遊びを重ねながら信頼関係を築くのが一般的だった。

紫式部は、宣孝には夫婦関係を絶やす気持ちなどさらさらないのを知りながら、あえて挑発的にも読める言葉遊びを仕かけ、年の離れた夫に勝利を収めた、ということだろう。

この後、2人のあいだには娘の賢子が誕生する。ただし、その結婚生活は、とりわけ紫式部にとっては、必ずしも心の安寧が得られるものではなかったと思われる。

そもそも紫式部より20歳以上は年長だったと考えられる宣孝には、すでに3人の妻がいて、それぞれとのあいだに子供ももうけていた。したがって、紫式部は嫡妻の地位を得たわけではなかった。

以前、「光る君へ」で藤原道長(柄本佑)から求婚されたまひろは、「妾」では嫌だといって拒絶した。ただ、道長との身分差を考えると、彼と結ばれるためには「妾」になる道しかなかったわけだが、宣孝とのあいだには身分差はない。しかし、紫式部は4番目の地位に甘んじたのである。

だから、結婚したとはいっても、宣孝は3人の妻のうちいずれかの家で暮らしており、紫式部は歌を詠み交わしながら、宣孝が通ってくるのを待つしかなかった。娘が生まれたといっても、父の為時は越前、宣孝は嫡妻のもとにおり、彼らのいない屋敷で育てるほかなかった。

石山寺で源氏物語を詠む紫式部 八島岳亭・画(写真=スミソニアン博物館コレクションより/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■歌にしたためた「夫を待つ身のつらさ」

平安貴族の婚姻形態は、妻問婚、すなわち夫が妻の家に通うスタイルが基本だったと誤解されているところがある。

これはかつての日本史の授業の悪影響も大きいと思うが、実際には、嫡妻であれば、実家に夫と同居するか、最初から夫と独立した家庭をもうけるのが一般的だった。貴族たちが通ったのは、嫡妻以外の妻のもとであった。

藤原道綱母が『蜻蛉日記』に、いつ訪れるともしれない夫を待ちわびる心中を記しているのは、嫡妻と比較したときにわが身のつらさを感じればこそだった。それと同種の感情を紫式部も抱いていたと思われる。

とくに宣孝は、「光る君へ」の第26回でも描かれたように、相変わらずほかの女性にも関心を示し続けたようなので、紫式部の心中は穏やかではなかったのだろう。たとえば、娘が生まれてもあまり通ってこない宣孝に、こんな歌を詠んでいる。

「しののめの 空霧わたり いつしかと 秋のけしきに 世はなりにけり(夜明けの空には霧が立ち込めて、いつの間にか秋の景色になってしまったように、私たちの関係も飽き飽きしたものになってしまったのでしょうか)」

娘を育てながら夫を待ち続ける日々は、やはり常に不安が同居していたに違いない。

■道長と会い続けた可能性はかぎりなくゼロに近い

ところで、「光る君へ」では、まひろと道長はかつての恋人同士であり、まひろにとって道長は「忘れえぬ人」ということになっている。

第27回「宿縁の命」(7月14日放送)でも、石山寺(滋賀県大津市)で、まひろと道長はばったり会い、道長からなにかしら口説かれるようだ。

6月30日付朝日新聞の記事で、脚本を担当する大石静は、まひろと道長が「幼少期に知り合い、淡い恋心を抱くようにした」「時代考証の先生のチェックを経たうえです。まひろと三郎(後の道長)の家は離れておらず、『幼少時代に知り合っていたこともあり得ない話ではない』と、お墨付きをいただいた」と語っている。

たしかに、「あり得ない話ではない」だろう。「時代考証の先生」も、それを肯定はできないまでも否定する材料もなかった、ということだと思われる。むろん、ドラマを盛り上げるためにそういう設定も必要なことはわかる。

ただ、身分が隔たる2人が、「幼少期」はともかく、その後も頻繁に会って深い関係になり、別れたのちもたがいに惹かれ続け、ことあるごとに遭遇したという可能性になると、「あり得ない話ではない」にしても、かぎりなくゼロに近いだろう。そもそも、女性は異性にみだりに顔を見せてはならず、出歩くことも少なかった時代だから、なおさらである。

無理に道長とからめず、宣孝との結婚生活でまひろがどんな心境を重ねていったのかをていねいに描いたほうが、むしろドラマとしても深まり、『源氏物語』の作者の精神がどのように形成されていったか、きちんと描けたと思うのだが、余計なお世話だろうか。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)