安田顕と林遣都のふたり芝居『死の笛』が開幕 オフィシャルレポート&舞台写真が到着

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安田顕企画・プロデュース『死の笛』が、2024年7月5日(金)、赤坂・草月ホールで初日を迎えた。

本作は、安田の所属するTEAM NACS(森崎博之、安田顕、戸次重幸、大泉洋、音尾琢真)のソロプロジェクト「5D2-FIVE DIMENSIONS II-」の一作で、安田にとっては2014年の『安田顕 ひとり語り2014~ギターの調べとともに。』以来、10年ぶりのソロ企画となる。初日を前に行われたゲネプロのオフィシャルレポートが到着した。

舞台は薄暗い。天井の小さな穴から光が漏れている(照明:望月太介)。錆ついて荒廃した空間の中央はフェンスやボックスによって分断され、左右に調理台がある。舞台の中央にはロフトのような場があって、そこには境がない。縦長の直方体が階段の代わりになっている(美術:土岐研一)。

下手奥から、安田演じるカノオが登場する。そしてブツブツひとり言を語りはじめるが、このセリフが奇妙。「叫びこえの、聞こえるのした」「お父さんがは寝るしてて、仕事の遅くしてて寝るしてて、寝てた」「思うするした」と語尾が独特だ。
最初はこの言葉遣いに違和感を覚えるものの、次第に耳に慣れてくる。安田の語るこの長大なセリフ群は、ヨヨコという娘が亡くなったことへの深い嘆きの詩のようで、それはまるで宮沢賢治の『永訣の朝』のようにも思えた。キャベツを抱えるカノオの仕草はまるで子供を愛おしむようだった。
続いて、上手の奥から林遣都演じるウスダが出てくる。彼もまた「間違えるした」「また聞こえるだった」とカノオと同じく奇妙な語尾の言葉を発する。
ウスダは妙な調子で歌いながら労働に取り掛かる。ウスダはカノオよりも若く、高く明るめな声を発しているが、それがどこか何も考えてないように聞こえ、そんなウスダをカノオは「馬鹿者め」と言う。

安田の「馬鹿者め」というセリフに聞き覚えのある観客もいるのではないだろうか。安田顕と林遣都が演じ、坂元裕二が脚本を書き、水田伸生がチーフ演出として参加した連続ドラマ『初恋の悪魔』(23年、日本テレビ系)で安田が演じた森園にも「馬鹿者め」というセリフがあった。そしてそれはとても印象的に響いた。
『死の笛』はこの『初恋の悪魔』がきっかけで生まれた。安田が林との共演に刺激を受け、舞台を一緒にやりたいと考えて、坂元や水田にも声をかけ、この豪華な座組が実現したのだ。

さて。カノオとウスダは調理人で、左右に別れているのは、それぞれ違う国に属しているからだ。ふたつの国は戦争中で、井戸のある厨房だけが緩衝地帯となっていた。
ふたりは戦士たちのために料理を作る。材料はほぼ野菜。動物性タンパク質は貴重で、トカゲをめぐるふたりのやりとりは、前転対後転など、とてもユーモラス。最初は警戒していたふたりだが、徐々に心の境界を緩めていく。どこか似た者同士、友情のようなものが芽生え始めてゆく。ウスダの拾った豆を自分のポケットにしまうカノオ。やがて、境界になっていたフェンスやボックスも片付けられる。
ただ、カノオの履いているサイズの大きな靴が気がかり。彼は、娘ヨヨコを殺した犯人を探していた。サイズの合わない靴は犯人のものであり、疑わしき者にはこの靴を履かせてみるのだ。ウスダに靴を履かせる場面には緊張感が走る。
一方、ウスダはある女性に想いを寄せている。リップルさんという人物で、その人にどう接するか、カノオにアドバイスをもらい、ダンスを教えてもらって、会いに出かける。ふたりのダンスシーンはすばらしかった(安田の首に巻いたストールの処理の仕方が鮮やか過ぎる)。
ひとりになったカノオに電話がかかってくる。その声を聞いたカノオは精神バランスを崩していき――。

謎に満ち満ちた物語のベースは極めてシリアスだが、随所に笑いがはさまって、バランスがいい。安田と林は『初恋の悪魔』の共演経験が生きているようで、息ぴったりだ。たったふたり、場面も厨房のワンシチュエーションのみ、しかも、セリフは語尾が風変わりで発するのが難しそう。これらの高いハードルをすべて超えて、ふたりの熱量は落ちることなく、緊張と弛緩のリズムも揺るぎない。
安田と林はふたりとも芝居を徹底的に突き詰め、作り込むタイプの俳優である。だからこそ、彼らから発せられる言葉の意味も役の心情も寸分たがわず確実に伝わってくる。だが、今回は、トリッキーな言葉によって理屈の回路を一旦断ち切られている。それが坂元裕二の俳優ふたりへの贈り物なのではないか。そしてまた、坂元の自分自身への挑戦でもあるのではないだろうか。

坂元裕二の脚本は、ストーリーのおもしろさはもちろんのこと、名台詞としてメモしておきたい、心揺さぶるセリフが魅力のひとつでもある。ところが『死の笛』ではあえて、馴染のない言語を使用し、それでもなお俳優が観客の感情を揺さぶることができるかに挑んでいるようにも見えた。なにげない日常生活の単語の羅列で叙情を生む、以前からの手法も用いつつ、今回はさらに、一瞬、脳が混乱する語尾を使用する。だがそれは見事、安田と林の絶え間なく動き続ける心と身体によって、情感を宿らせることに成功した。


最初は、戦場での調理という労働に死んだような顔になっているカノオとウスダ。ふたりは調理をしながら、いつ終わるかわからない途方もない時間を、とめどないおしゃべりと、ふざけあいを続けて時間をつぶしていく。戦場で闘っているわけではないにもかかわらず、心と身体がすり減らされていく、孤独で悲痛なリフレイン。
そんなカノオとウスダが徐々に変化していく。それはまるで、知らなかった感情を回復させていくかのようだ。第4幕のふたりの変化と、激しく溢れ出る感情には圧倒された。水田演出は、脚本と俳優の最高の瞬間を逃さない。

また、『死の笛』は音も重要だ。サイズのあわない大きな靴を引きずるように歩く重さ、調理用の包丁をキャベツに差す音、ロフトにあがる階段代わりの台を慎重に上り下りする音、調理用具の金属音、それらが心にさざなみを立てる。時々、鳴る、けたたましい電話の音は激しく心をかきむしる。最も耳に残るのは死の笛である。タイトルにもなっている重要な小道具。ウスダが持っていた手のひらサイズの、ドクロの顔をした死の笛は、鳴ったり鳴らなかったりするが、鳴ったときには吹いた者は死ぬと言われている。
この笛が鳴るときはあるのか。カノオとウスダは代わり映えのしないこの調理場から出ていくことはできるのか。そして、戦争が終わるときは来るのか――。
チェロの音色(平松由衣子)も印象的だ。安田の声はチェロの音にもちょっと似て聞こえる。

ミステリー?ホラー?スリラー? ひんやりとした内容ながら、俳優たちは汗だく。林のTシャツの背中が汗で色が変わっていき、安田は終盤、顔から汗をしたたらせていた。ずしりと重量級のノンストップの2時間、これを毎日毎日全身全霊でやり続けることになる安田と林を讃えたい。

文=木俣冬 撮影=村松巨規