東京と愛媛、子どもらしさは地域で大差なし。高橋久美子さんが二拠点生活で感じたこと
愛媛と東京で二拠点生活をしている、作家・作詞家の高橋久美子さん。今年で3年目となるこの暮らしで、愛媛と東京の子どもについて着目。そこで気がついたことについてつづります。
愛媛の自然のことは子どもほうが知っている
東京と愛媛の二拠点生活がはじまって3年目に入った。
愛媛では実家で暮らし、農業をしている。高校生まで育った地域で再び暮らすというのは、不思議なタイムスリップ感がある。一方で、同じ風景でも、子どもの頃には見てなかったことが見えることもある。たとえば山々の雄大さなんかは気にとめなかったし、カエルの大合唱も当たり前にある音だった。今となれば、野生動物の被害によって田んぼをする人がほとんどいなくなりカエルの声は遠い記憶の中の音色になってしまった。
姉の子どもたちは、夏休みになるとカブトムシを取りに山や森にでかける。自転車で夕方に仕掛けをして、早朝にそれを確かめにいく。年々改良が重ねられる仕掛けを見て、子どもの集中力はすごいなあといつも感心する。私は三姉妹だったからか、虫取りに夢中になることがなく、花いちもんめとか、缶けりといった、小さな範囲での遊びしかしなかった。
その30年後、森に仕掛けをしにいく姉の子たちを見ていると、とても現代っ子とは思えない。私よりもよほど地元の自然を知っているし、木の名前も虫の名前も知っている。同じ場所で育ったけれど、私はそういう視点で見て来なかったんだなあ。人によって何を見て生きるかは様々だ。
秋に一緒に栗拾いにでかけたときも、
「あ! そこにも栗あるよ!」
と、私の何倍も見つける。そして、気前よく、くれるのだ。
うわー。かっこええ。いいんですか? もらった栗で重くなる袋。彼らは、自然遊びという分野においては私より先輩だ。
そうだったな。母と栗拾いに行っていた子どもの頃、栗をたくさん拾うのはやはり私達子どもの方だった。視線が低いから見つけやすいということもあるだろうし、学校までの道が山道だったから目が慣れていたのかな。
大人と子どもの関係は、ときにはそれが逆転する。大人は経験を積んで、子どもより知っていることがたくさんあるけれど、子どもがリーダーになることもたくさんある。
東京の子どもたちもしっかり見ている自然
一か月前、東京の家でのこと。ソファで本を読んでいたら、庭で子どもとお母さんの声がする。
「持って帰る。絶対に、育てたい」
「でもね、この人の家の葉っぱをちぎるのは良くないでしょう。だから、ここで観察させてもらって、明日の夕方また見にこよう」
「いやだ。家に持って帰って育てるの」
なるほど、うちのレモンの木についた青虫を育てたいと言っているんだなあ。
私は、玄関を飛び出していった。
「いいですよ。青虫、ぜひ持って帰って育ててください」
二人、びっくりしている。
「この青虫を、この子はアゲハチョウになるって言うんです。私は、蛾になるんじゃないかって思うんですけどね……」
「正解! この子はアゲハチョウですね。毎年、夏になると大きくて綺麗なアゲハチョウがこの庭を飛んでいるよ」
小学1年生くらいの男の子は満足そうにして、首から下げた虫かごに青虫を入れた。
「レモンの葉も、いつでも取りに来ていいからね」
私より栗をたくさん見つけることのできる愛媛の子たちと同じように、この子は、蝶々に関してはお母さんより詳しいのだ。
もしかしたら、お母さんは家で青虫を育てたくなかったのかもしれない。でも、二人にとってこの観察はきっと良い影響をくれるんじゃないかな。
しばらくして、家の郵便受けに「レモンの葉っぱをもらいました。ありがとうございます」という子どもとお母さんの手紙が入っていた。
愛媛のように、大きな山や森はないけれど、東京の子どもたちも彼らの身近にある自然を見つめて育っているんだなと思った。
視線を少し変えると、東京にもたくさんの小さな自然がある。私は東京に出たからこそ、両方の自然の素晴らしさを知ることができたのだと思う。