自ら発掘したルビー・モレノはアカデミー賞女優に

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 セインカミュ(53)、ゾマホン(59)、フィフィ(48)、ルビー・モレノ(58)など数多の外国人タレントや俳優を発掘した芸能プロモーターの稲川素子さん(90)が5月13日、心不全のため亡くなった。「世界142カ国5200人の外国人タレントを紹介します」(稲川素子事務所HPより)と銘打ち、芸能プロダクションを手掛ける実業家として確固たる地位を築いた稲川さんの半生を本人のインタビューをもとに振り返る。(前後編の後編)

【前編】外国人タレント専門事務所を設立「稲川素子さん」死去 の続き

(デイリー新潮 2020年10月3日配信の記事をもとに加筆・修正しました。日付や年齢、肩書などは当時のまま)

【写真】かつてはテレビで見ない日は無かった…稲川素子事務所に所属していた「有名外国人タレント」の最近の姿

連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに救われた日

 私の父は福岡県柳川市の旧家に生まれ、若い頃にはヨーロッパで何年も「遊学」できるほど恵まれた環境で育ちました。

自ら発掘したルビー・モレノはアカデミー賞女優に

 柳川の実家は1万坪の敷地の中にテニスコートが2面あるほどの屋敷で、別府にあった別荘にはグランドピアノが置かれていたことを覚えています。

 私は戦況の悪化を受け柳川の父の実家に疎開し、小学校6年生の時に終戦を迎えました。

 我が家は戦後の農地改革で「不在地主」として土地を没取され、家計がどん底になり、日本の食糧不足も現在では想像も出来ないような状況でした。

 サツマ芋の蔓やカボチャの葉を食べて、飢えをしのいでいた記憶があります。

 幼少時代の私は、通信簿に「腺病質」とかかれるような虚弱体質なうえ、そういった食糧事情がたたり、高校入学後には、極度の貧血で入退院を繰り返していました。

 今思えば独りよがりなのでしょうが、当時の私は「原爆の後遺症で白血病になったのではないか」と思い悩むほどでした。

 というのも、1945年の8月9日、私は長崎市に投下された原爆雲を目撃していたからです。

 ドーンという地響きを感じて防空壕を出ると、火山の噴火のような大きなキノコ雲が浮かんでいるのが、柳川からもはっきり見えたんです。

――疎開先から東京に戻り、「山手線の階段も上がれない」ほど弱っていた稲川さんを救ったのが、驚くことに連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーだった。

マッカーサーは同じように私を招き、「Have a lot」と…

 当時の私は、ミッションスクールの女子聖学院高等部に通っていました。

 体調が良いときは、学校で級友と語らい、ピアノを弾くのが何よりの楽しみでした。

 女子聖学院は当時から土日が休みで、日曜日は教会に礼拝に行くよう定められていたのですが、高校2年の時に国会議事堂の真向かいにあったチャペルセンターという教会の聖歌隊に参加するよう学校から推薦されました。

 チャペルセンターは主に進駐軍の軍人が集まる教会でしたが、マッカーサー夫妻と息子さんも日曜日の礼拝に来ることがあったのです。

 ある日の礼拝の後、私が歌い終わり壇上から降りた時、マッカーサーが私の手をそっと握り肩に手を置くと、裏庭の木陰のテーブルまで私を連れ出しました。

 しばらくすると、教会の人がベーコンエッグと、パンとバター、ミルクを運んできてくれたんです。

 マッカーサーから身ぶりで食べるように勧められ、夢の様なごちそうを頂きました。

 初めて食べたベーコンはちょっと塩辛くて、何度も何度もかんで飲み込みました。

 その翌週も、マッカーサーは同じように私を招き、「Have a lot」と食事を勧めてくれ、後には私が1人で食事をしているのが寂しく見えたのか、友人も一緒にベーコンエッグをいただくのが習慣になりました。

 極度の栄養失調による貧血で青白い顔をした私を可哀そうに思っての厚意だったのでしょうが、当時は街中でも決して見られないような貴重な食事をいただきながら、「私たちはこんな人たちと戦争をしていたのか」という思いが心に強くよぎりました。

 今でも誕生日とかお祝いの席では必ずマッカーサーを偲んで、ベーコンエッグを一皿出すようにお願いしています。

「稲川さんに頼めば、良い外国人が見つかる」と口コミで

――食糧事情も改善して徐々に健康を取り戻した稲川さんは23歳の時に、三井鉱山に勤務していた稲川長康氏と結婚。2歳10ヶ月からピアノの英才レッスンを受け、後にプロのピアニストとして米国に渡る一人娘の佳奈子さんの教育に力を注いだ。そんな生活に転機が訪れるのは50歳の時だった。

 娘が、日本テレビのドラマにピアニスト役で出演する事になって、その撮影現場で監督とプロデューサーが、「今度制作する映画でフランス人を起用したいのだけど、なかなか見つからなくて困っている」と話しておられるのを小耳に挟んだんですね。

 とても困っていらしたようなので、つい「フランス人の友達なら1人います」と言ってしまったんです。

 すぐに紹介してほしいという運びになったのですが、その友達は既に帰国していました。

 ただ、その時、監督たちに「申し訳ありません。お役に立ちませんで」と言ったならば、今の私も会社もなかったでしょう。

 自分で探してみようと日仏学院に電話したところ、演出家で元俳優という経歴の方が見つかったんです。

 この方の演技がすばらしくて、「稲川さんに頼めば、良い外国人が見つかる」と口コミで広まり、あちこちから依頼が来るようになりました。

 最初の2年間は紹介料も一切いただいていなかったんです。そのうち「何か問題が起こった時に、労働大臣(現厚生労働)の許可を取っていないと、ご主人が会社に辞表を出さざるを得ない事態になりますよ」と助言を受け、慌てて大臣の許可を取って、1985年4月に「稲川素子事務所」を設立したのです。

ルビーは今、本当にまじめに頑張っていますよ

 ところが、計画的にやった事でもないので、所属タレントはゼロ。仕事は次々といただくんですが、供給が間に合わない状態。

 これは自分でスカウトするしかないなと思い立って、六本木の交差点に立って「ジーッ」と行き交う外国人を見て、「この人は」と思えば片っ端から声を掛けましたね。

 黄金期だったディスコもスカウトするには最適でした。お立ち台に立って踊ると、全体を見渡せるので、いつもお立ち台の上から「誰か良い人いないかな」って探してましたね。

 ある時、社長の役を探してほしいと依頼があって、いつものように街中で探していました。
スカウトはまるで警察官の張り込みのようなものです。

「この人は社長にはちょっと若いから、部長かな」なんって見ているうちに、「あの人なら社長そのもの」っていう人がいたんですね。

 それで話しかけてみたら、本当に有名なタイプライターメーカーの社長だったんです。

 そんな事が何回もあって、私はその人の顔は、その人の「人生の履歴書」なんだと考えるようになりましたね。

――現在も148カ国・約5000人の登録があるという稲川事務所。稲川さんが発掘しスターに育て上げた1人が、女優のルビー・モレノだ。映画「月はどっちに出ている」(1993年)で、ブルーリボン最優秀主演女優賞を受賞するなど、多くの賞レースを制し高い評価を受けながらも、一時は金銭問題や仕事のドタキャンを繰り返す「トラブル女優」としても話題になった。

 ルビーは今、本当にまじめに頑張っていますよ。

 だから昔のことはもうあまり言いたくありません。彼女もきっと、そう思っているでしょう。

ルビーが私を訴えて、裁判所で再会することになりました

 最初に出会ったのは、フィリピン人の女の子たちが共同で暮らしていた部屋だったんですけど、ルビーはちょうど寝ていて、その寝顔がバンビちゃんみたいに本当に可愛かったんですよ。

 エキストラに出してみたら、どんどん人気が出てドラマや映画で活躍するようになったんだけど、だんだんわがままになっちゃってね。

 問題が絶えなくなって、突然フィリピンに帰ってしまいました。

 しばらくすると、なんとルビーが私を訴えて、裁判所で再会することになりました。

 こちらが訴えるなら分かるんですが(苦笑)裁判所に行きましたら、ルビーが私を見つけて、相変わらずとても可愛い笑顔で盛んに手を振っていました。

 ルビーと弁護士が先に法廷に入って、終わると私と顧問弁護士が呼ばれました。

 そしたら、裁判官が「訴えが取り下げられているので、この訴訟は無効です。理由は訴える根拠がないということです」って言ったんです。

 家に帰ると、ルビーから「会いたい。裁判でもしなきゃ素子さんに会えないと思った」と電話が来ました。

 それで話し合いの場を持って、「人に迷惑を掛けたらごめんなさい、お世話になったらありがとうと言う」と条件を出して、「もう一回頑張ろう」と伝えました。

 その時、ルビーは机に手をついて「素子さんごめんなさい。ご迷惑をかけました。これからのルビーはもう違うよ」と言ってくれました。ちょうど放蕩娘が帰って来たときのように、何もかも嬉しさに変わりました。

 現在はルビーの息子さんも大きくなったので、きっと親孝行をしてくれますよ。素晴らしいご主人とも巡り会えて、これからの人生は、家族の幸せを大切にしてほしい。

 ルビーの人生の前半は波瀾万丈でしたが、後半は和やかな幸せな一生を送れるよう祈ってます。そしてもう一度、アカデミー賞を取るような名演技を皆に見せてほしい。

鋭利なハサミを脚に突き立て睡魔と戦った

――がむしゃらに働き事務所を育てた稲川さんは65歳で、新たな挑戦を始めた。一念発起して、かつて病気で中退した慶応義塾大学文学部に再入学したのだ。

 最後まで大学を終えられなかったことがずっと気になっていたんですが、いざ始めてみると、仕事と学業の両立はとても大変でした。

 例えば、これをパスすれば卒業論文の指導を受けられるという英文法のテストの前日。外国人タレントがロケ現場に遅刻して、撮影が飛んだことがありました。

 必死にお詫びして、家に帰ったのは夜中の12時半。机に向かいましたが睡魔におそわれ、モーツァルトが眠らない為にナイフを脚に立てて作曲をしたという逸話を思い出したんです。

 私は鋭利なハサミを脚に突き立て睡魔と戦ったんですが、ハサミのことばかりが気になってうまくいきません(苦笑)。

 そこで、20センチくらいの蜂蜜付けの朝鮮人参を刻んで全部口に押し込み、栄養サプリメントを15個も飲んで机に戻りました。

 そしたら、自分では気がつかないんですが、ハイテンションになって、大声で独り言をいいながら例文を覚え続けていました。

 ふと時計を見ると午前9時、試験開始は9時半。飛んでいって、何とか試験を受けることが出来ました。覚え立ての記憶が功を奏し、A評定で合格したので、卒論も無事に書き上げ、70歳で卒業できました。

東京大学大学院の博士課程も満期修了して、博士論文を書き続けています

 鉄は熱いうちに打てとばかりに、今度は東京大学大学院の修士課程を受験しました。自分なりに努力しましたが結果は1次試験で不合格。

 それでもあきらめきれず、3度目の挑戦でついに合格を勝ち取りました。修士課程は全優の成績で、博士課程に残していただきました。

 現在は博士課程も満期修了して、博士論文を書き続けています。

 論文のテーマは、外国人タレントと仕事をする為に東京入国管理局に通い詰めた体験を横糸にして、学問で得た知識を縦糸にして織ったような私にしか書けない論文「戦後日本の入国管理政策の変遷と課題」としました。

――79歳の時には大腸ガンが見つかり、余命2年を宣告されるも、精一杯な生き様は病魔も追い払った。

 今年の1月にも風邪をこじらせて肺が炎症を起こして、一時は人工呼吸器につながれるほど重篤になりました。

 再び命をいただいたからには、最後の日々をどう過ごすかを考えています。

 この間、道を歩いていたら、知人に「稲川さん、そんなに歳なのに、なんでいつもルンルンしているの」って聞かれたんです。

 私は「歳なのにと言うのは何ですか?若くて生々しい木よりも、枯れ木の方がどんどん燃えるじゃない」って答えたんです。

 今の目標はもちろん博士論文の審査が通ること。

 それと、長年続けてきた社交ダンスでは、縁あって公益財団法人「日本ボールルームダンス連盟」の会長も任せられていますから、社交ダンスをもっともっと普及させることも使命だと考えています。

 新型コロナウイルスの流行で大変な時世ですけど、人生にはいろいろな障害物があります。

 だけど、その障害物は自分が乗り越えてもっと輝くために砥石の役をしてくれていると思うことにしています。

 コロナも私にとっては一つの砥石です。磨いてもらってますます輝ける人間になれたらよいですね。

デイリー新潮編集部