累計35万部の人気シリーズ「丸の内で就職したら、幽霊物件担当でした。」著者・竹村優希さんによる『その霊、幻覚です。視える臨床心理士・泉宮一華の噓』第3巻発売を記念して、シリーズ第1巻のプロローグを公開します。

 主人公は、臨床心理士の泉宮一華(いずみや・いちか)。渋谷の宮益坂メンタルクリニックで働いている彼女には、ある秘密があった――。


『その霊、幻覚です。視える臨床心理士・泉宮一華の噓』


『その霊、幻覚です。視える臨床心理士・泉宮一華の噓2』


『その霊、幻覚です。視える臨床心理士・泉宮一華の噓3』

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「──乗ってるんです。夜中に目を覚ますと……体の上に、血まみれの女性が」

  東京渋谷、宮益坂。

  雑居ビルの二階にある「宮益坂メンタルクリニック」内のカウンセリングルームにて、若い女性が躊躇いがちにそう話した。

  女性と向かい合っているのは、泉宮一華(いずみやいちか)。二十六歳、臨床心理士。

「血まみれの女性がお腹の上に、ですか。いつ頃からでしょうか?」

「かれこれ、一ヶ月くらい経ちます……」

「なるほど、一ヶ月。それは苦しいですね」

  一華は頷きながら、語られた内容をカルテに打ち込む。

  タイピング音が止まると、女性はふたたび口を開いた。

「ただ、実は、……心当たりがあって」

「心当たり、とは?」

「はい。……というのは、一ヶ月前に友人数人とダムに行ったんですけど、そのとき同行した一人が、水場には幽霊が集まってくるって話していたんです。……だから、もしかして私、ダムから幽霊を連れ帰っちゃったんじゃないかって」

「水場には、幽霊が集まってくる、ですか」

「聞いたときは、あまり気に留めていなかったんですが……」

「なるほど。生き物も水のある場所に集まりますしね。確か、ビオトープ……、とか言ったような」

「……あの」

「はい」

「やっぱり、嘘だと思ってますよね」

  女性は気まずそうに、それでいて不満げに、一華を見つめる。

  ただ、それはこの手の相談をしてくる患者のほとんどが見せる表情であり、一華にとっては見慣れたものだった。──ちなみに。

「嘘だなんて思っていませんよ」

「本当ですか……? っていうか、私自身、おかしいこと言ってるって自覚してるんです。そもそも、もし本当に憑かれてるなら、病院じゃなくてお寺でお祓いをしてもらうべきなんじゃないかとも思いますし。でも、お祓いってなんだかハードルが高いというか……。だから、相談したら幽霊が視えなくなるっていう先生の噂をネットで見つけて、勇気を出して静岡からここまで……」

  この、誰にも言えないまま溜めに溜め続けたのであろう思いの吐露までが、一セットとなる。

  一華はタイピングの手を止め、女性をまっすぐに見つめた。

「大丈夫ですよ。あなたが見たものは、幽霊なんかではありません。それに、すぐに見えなくなります」

  もし、患者が藁をも掴みたいくらいに切羽詰まった状態だったなら、この言葉でひとまず落ち着いてくれるが、ほとんどの場合はそう簡単にはいかない。

「幽霊じゃないなら、つまり幻覚ってことですか……?」

  なぜなら、そのいかにも怪訝そうな口調が表す通り、人というのは視えるはずのないものが視えてしまったとき、それが霊であろうと幻覚であろうと、いずれにしろ簡単に受け入れられるものではないからだ。

  現に、女性は幻覚と口にした瞬間から明らかに動揺し、一華の返事を待たずにさらに言葉を続けた。

「だけど、もしあれが幻覚だとするなら、私の精神状態はかなり異常ってことになりますよね……? だって、毎晩血まみれの女性が体の上に乗ってる幻覚を見るなんて、明らかに健全じゃないもの……。メンタルクリニックに来ておいてこんなこと言うのもなんですけど、それはそれでショックっていうか……」

  女性は言いにくそうに語尾を濁し、深く俯く。

  一方、一華は密かに手応えを覚えていた。

  なぜなら、その発言は、幽霊を視たと信じ込んでいた女性の思考に、幻覚である可能性が新たに加えられた証拠とも言える。

  ここまでくればあとは導くだけだと、一華はゆっくりと首を横に振った。

「ショックを受ける必要はありませんよ。ちなみに、人間は脳のごく一部の機能しか使えていないっていう話、聞いたことあります?」

「まあ、よく言われてる話ですしね……。でも、それが?」

「実は、人間の脳の機能については、まだそのほとんどが解明されておらず、未知の部分が多くあります。ですから、あなたが見た幻覚も精神の異常ではなく、脳が持つひとつの機能だと捉えていただければと思いまして」

「機能……?」

「ええ。まず前提として、これはすでに解明されている内容ですが、脳は目にしたものを本人の意識外の部分で大量に記憶しており、それを、眠っている間に整理しています。ですから、幻覚はその過程において出来上がった、曖昧な記憶の掛け合わせだと私は解釈しています」

「でも、自分の記憶が元になっているなら、まったく見たことがないものが現れるのはやっぱりおかしいでしょう?」

「ええ。ですが実際は、まったく見たことがないと感じているだけです。脳に保存された記憶のほとんどは、さっきも言ったように本人の意識外のものですし、その組み合わせによって記憶にない新たなものが出来上がってしまうことも、往々にしてあります。それが、不安や恐怖心などをトリガーにして、さも現実であるかのように目の前に現れるのが、いわゆる幻覚です。もちろん、すべての幻覚がそうだとは言いませんが。そして、幻覚というものは、寝起きなどの意識が曖昧なときに、もっとも起こりやすくなります」

「……確かに、女性が現れるのはいつも夜ですけど」

「あなたの場合は、“水場には幽霊が集まる”というふいに得た知識が、幻覚をさらに明確なものにしてしまったのではないかと」

「そう、でしょうか……。そう言われると、そんな気がしなくもないけど……」

  さも半信半疑といった呟きを零しながらも、女性の目には、さっきまでなかった小さな希望が滲んでいた。

  しかし、女性はすぐにそれを収め、一華に縋るような視線を向ける。

「ただ、理屈を理解したからって解決にはならないでしょ? 幻覚を見ないようにするには、どうすれば……」

  その想定通りの質問を受けて、一華は成功を確信していた。そして。

「理屈を理解し、幽霊を視たという思い込みを否定した時点で、あなたの脳はもう新たな解釈を始めています。ですから、もう幻覚を見ることはないと思いますよ」

  はっきりとそう言い切ると同時に、女性は大きく目を見開いた。

「もう幻覚を見ることはない……? そ、そんなハッキリ言っちゃっていいんですか……?」

「ええ、大丈夫です」

「これまで、ほとんど毎晩見てたんですよ……?」

「ですが、もう見ません。少なくとも、同じ幻覚は」

「どうしてそこまで言い切れるの……? 根拠は、さっきの話だけですよね?」

「プロですので、わかります。もっと深いところまで根拠を語ろうとすれば、さっきの何倍も長い話になりますが、聞いて行かれますか?」

「い、いえ、理解できそうにないからいいです……。だけど、そこまで言っておいて、もしまた見えてしまった場合は? っていうか、本当に幽霊だったら……?」

「あり得ません。幽霊なんて存在しませんから」

「…………」

「大丈夫。どうぞ、ご安心ください」

「……わかりました。一旦、様子を見てみます」

  女性はどこか納得いかないといった表情で、けれど瞳にはわずかな希望を宿したまま、ぺこりと頭を下げカウンセリングルームを後にする。

  そして、戸が閉まった、瞬間。──突如、部屋全体がガタンと大きく揺れた。

  同時に、周囲の空気がずっしりと重く澱み、室温はみるみる下がって一華の吐く息が白く広がる。

  一華はひとまず溜め息をつき、──それから、戸にべったりとしがみついた、血まみれの女に視線を向けた。

「……悪いけど、あなたはここから出られないのよ。この部屋には結界を張っているから」

  語りかけると、女は怒りをあらわに戸に爪を立て、ガクガクとぎこちない動作でゆっくりと振り返る。

  乱れて顔に貼りついた髪の隙間から、どろりと濁った目が一華を捉えた。

  空気はさらに張り詰め、室温も一段と下がり、一華は椅子の背もたれにかけている季節はずれのフリースジャケットを羽織ると、ポケットから取り出した数珠を手首に通す。

  そして、棚から試験管を一本手に取り、女に向かってゆっくりと足を進め、至近距離になったところで膝をついた。

「ダムで、自殺でもした?」

  問いかけたものの、女から反応はない。

  しかし、一華はそれに構うことなく、数珠を嵌めた手で女の肩にそっと触れた──そのとき。

  女の姿は突如、霧のように拡散し、周囲に大きく広がる。

  それらは羽虫の大群のように部屋をぐるぐると旋回した後、次第にひとつにまとまり、一華が手にした試験管の中へ勢いよく吸い込まれていった。

  すべてが試験管に収まりきると、一華は試験管にゴム栓をし、本棚から抜き取ったお札をその上からぐるりと巻き付ける。

  気付けば部屋の空気はすっかり元通りで、一華は椅子に腰を下ろし、背もたれにぐったりと体重を預けて試験管を見つめた。

「夜な夜な体の上に乗ってくるだなんて、いくらなんでもやり口が古すぎるって」

  文句を呟き、それから鍵付きの引き出しを開けて「泉宮嶺人(れいと)宛」と書かれた茶封筒の中に試験管を放り込んだ。

  すでに入っていたいくつかの試験管たちが、カチンと危うげな音を立てる。

「結構溜まってきたし、そろそろ送らないと……」

  ひとり言を零すと、たちまち心にモヤッとした感情が広がった。

  一華はそれを振り払うように首を横に振り、引き出しを閉めると手早くフリースを脱いで服装を整え、なにごともなかったかのようにカウンセリングルームの戸を開ける。

「次の方、どうぞお入りください」

  ここではサロンと呼ばれている、いわゆる待合室のソファに座っていたのは、不安げに背中を丸めて座る女性。

  その背後は禍々しい影に覆われ、一華はやれやれと思いながらも笑みを浮かべた。

  泉宮一華は、霊という存在に心底うんざりしている。

  奈良の「蓮月寺」という由緒ある寺に、代々高い霊能力を持つ霊能家系の長女として生まれながらも。

  そんな一華が臨床心理士を目指すキッカケとなったのは、中学生の頃に観たテレビ番組で、まさに臨床心理士が「幽霊は幻覚である」と強く説く様子を目にした瞬間のこと。

  それはたわいのないバラエティ番組だったけれど、一華はその発想に強い魅力と可能性を感じた。

  霊という存在を、あれほどまで迷いなく幻覚であると断言できたなら、どんなに気持ちが晴れるだろうと。

  同時に、──叶うなら、もう霊だの呪いだのと、世間一般で曖昧とされるものに振り回されることなく、皆と同じ常識と価値観の中で生きてみたいと、強く願っている自分がいた。

  それは、早くも途方に暮れていた人生に光明が差した瞬間でもあった。

  しかし。

  その頃の一華には、当然ながら、想像できていない。

  いずれ、カウンセリングルームに結界を張って霊を捕獲する未来がやってくることも、それ故にネットで「心霊相談専門の泉宮先生」という、まったく意図しない評価を得ることも。