田嶋幸三から宮本恒靖新会長へ「院政を敷くつもりは一切ない」 やり残したことは「強いて言えば...」
日本サッカー協会(JFA)前会長
田嶋幸三インタビュー04
◆田嶋幸三・01>>ハリルホジッチ解任の真実「目をつぶることはできなかった」
◆田嶋幸三・02>>「なぜ森保監督を続投した?」JFA前会長の答えは...
◆田嶋幸三・03>>100年に一度の危機「サッカーの火を消してはならない」
日本サッカー協会(JFA)前会長の田嶋幸三は、執務室にふたつの写真を飾っていた。
ひとつは2022年カタールワールドカップの"三笘の1ミリ"を切り取ったもので、もうひとつは2023年女子ワールドカップである。
2016年から4期8年の在任期間にはロシアワールドカップや東京五輪も行なわれたが、なぜこの2枚なのだろう。連続インタビューの最終回は、退任にあたっての思いを聞いた。
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JFAは田嶋幸三前会長から宮本恒靖新会長へバトンタッチ photo by Sano Miki
「三笘選手のあのシーンは、信じることの大切さを忘れないために飾っていました。カタールワールドカップのアジア最終予選は、本当に苦しみました。オマーン、サウジアラビアに負けて『予選突破が危うい』と言われ、多くの批判を受けたけれど、僕は森保監督を信じて、チームは予選を突破してくれた。カタールワールドカップのスペイン戦のあの場面は、監督と選手を信じきったらこういうことが起こるんだ、奇跡と呼ばれるようなことが起こるんだ、とあらためて実感した試合でした」
2023年女子ワールドカップの1枚は、スペイン戦で歓喜を爆発させる選手たちを写し出している。田嶋は少し悔しそうな表情を浮かべた。
「本当はこういう喜びを、東京五輪で味わってほしかったんです。2019年の女子ワールドカップでベスト16に終わったタイミングで、チームの成長のためにどうするべきかを考えました。なでしこジャパンの監督人事は女子委員会が決定するもので、あのタイミングでは監督を代えなかったけれど、もし代えていたら、東京五輪でなでしこジャパンの喜ぶ姿が見られたかもしれない。決断しきれなかった自分への戒めとして、喜んでいる写真を飾っていました」
【何でもっと早く動かなかったのだろう】執務室には自身の人生訓も飾っていた。『無私』である。
「何かを決断する時に、個人的な感情を挟んだり、私利私欲を考えたりしたことは一切ありません。日本サッカーにプラスになるかどうかだけを考えて、決断を下してきました。だから、無私なのです」
在任期間にやり残したことは──との質問には「ありません」と即答する。「やりきれなかったことはありますが、後悔はありません」と重ねた。
田嶋幸三JFA前会長の執務室に飾られた『無私』の二文字 photo by Sano Miki
「この8年間は代表チームを強くすること、魅力あるチームにすることを絶えず考えて、いつも危機感を抱いてきました。だからハリルホジッチさんに交代してもらったし、森保監督をサポートしてきました」
そこまで話すと、田嶋は「自分の会長就任前に建設が決まったことですが」と前置きをして、2020年に稼働したJFA夢フィールド(千葉市)に触れた。
「夢フィールドがなかったら、カタールワールドカップ予選は突破できなかったと思う。ヨーロッパのクラブでは当たり前にあるトレーニングジム、メディカルルーム、サウナなどの施設を備えていて、練習に集中できるしリラックスもできると、選手たちにとても好評でした。先日のパリ五輪最終予選に臨んだなでしこジャパンも、夢フィールドでしっかりと準備をしてくれました」
各カテゴリーの代表スタッフは、チームの活動期間外の時間に夢フィールドへ足を運ぶ。日本代表監督の森保一やU-23日本代表監督の大岩剛、なでしこジャパン監督の池田太らが、自チームの現況や日本サッカーについて意見を交換しているのだ。
「男女のあらゆるカテゴリーの監督が、活動のない時期は同じ空間でデスクワークなどをしている。パッとコミュニケーションが取れるのはプライスレスの価値。まさに強化の拠点となっていて、夢フィールドを造って本当によかったと思います」
代表選手たちを喜ばせたものが、もうひとつある。「何でもっと早く動かなかったのだろう」と、田嶋は小さく頭を下げた。
「2021年9月から、代表チームが移動時に使用するバスを運用するようにしました。これが選手たちに喜ばれました。ヨーロッパのクラブは自前のバスで移動していて、Jリーグのクラブでも自前のバスが増えています。国際大会でもラッピングされた専用のバスが各国代表に用意されますが、日本代表にはそれまで専用のバスがなかった。これはいけないということで運用したところ、選手たちからこれでまたさらに誇りを持って戦えます、ありがとうございます、と言われました」
【私がやってきたことを無視することになっても...】JFAは2050年までに男子のワールドカップを開催し、優勝することを「2005年宣言」に記している。そのためには、競技力を向上しつつ、スタジアムを整備しなければならない。8万人収容をひとつ、6万人収容を3つ用意し、4万人収容を11個揃えなければならない。
「スタジアムのハードルはかなり高いです。広島の新スタジアムは約3万人、今秋に完成する長崎の新スタジアムは約2万人で、維持管理を考えるとそれぐらいのサイズが現実的なのかもしれません。
ただ、金沢にも新スタジアムができて、富山でもサッカー専用スタジアム建設の機運が高まっている。アジアで、世界で活躍するクラブが出てくれば、国際基準を満たすスタジアムを造ろう、ということにもなっていくと思います。個人的にはレアル・マドリードのように、首都圏のチームが常に8万人を集めるぐらいの強さを持ってほしいですね」
JFAの会長は3月下旬で退任したが、国際的な要職は引き続き務めている。世界のサッカー界のビジョンを検討するFIFAカウンシルに名を連ね、アジアサッカー連盟理事と東アジアサッカー連盟会長も務める。
「そういった仕事を続けていくからといって、宮本新会長に何か影響が及ぶことはありません。院政を敷くつもりは一切ありません。せっかく若くして就任するのだから、思いきったことをやってほしい。
私がやってきたことを無視することになっても、全然構いません。失敗を恐れずに、どんどんやっていけばいいんです。もし何かあれば相談には乗りますし、必要に応じてサポートしていきます」
プレッシャーを背負いながら走り続けた8年間を終えて、「まずはちょっと、休みたいですね」と率直な思いを明かす。
「やりたいことはたくさんあって、思いついたものを書き出しているんです。自宅の近くの小学校でサッカーをやっているので、それを応援するとかね」
【現場の監督をもう少しやりたかった】JFA会長として過ごした8年間に後悔はない。ならば、サッカー人生でやり残したことは?
田嶋は「強いて言えば」と切り出した。
「現場の監督をもう少しやりたかった、というのはあるかなあ。僕は体育の先生になりたくて筑波大学で学び、アンダーカテゴリーの監督もやらせてもらったので。短い時間だったけれど、現場で働くのは本当に楽しかった。育成年代の選手たちが成長していく姿に接するのは、指導者として何よりの喜びでしたよね」
田嶋の表情に実直さが浮かび上がる。強化や育成、普及などの最前線から退いても、サッカーとの関わりは続いていくのだろう。
<了/文中敬称略>
【profile】
田嶋幸三(たじま・こうぞう)
1957年11月21日生まれ、熊本県天草郡出身。現役時代のポジションはFW。浦和南高3年時に高校選手権を制覇し、筑波大学4年時に日本代表に選出される。1980年から1982年まで古河電工でプレーしたのち、引退して指導者の道へ。西ドイツに留学してB級ライセンス、1996年にJFA公認S級ライセンスを取得し、1999年から2002年にかけてU-16、U-17、U-19代表監督を務める。2002年にJFA技術委員長となり、2016年3月に第14代JFA会長に就任。2024年3月、4期8年の任期を終えた。