藤原道長を演じる柄本佑さん(写真:NHK公式サイトより引用)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第7回は、藤原道長を追い抜きスピード出世した意外な人物を紹介する。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

藤原実頼が「名ばかり関白だ」と嘆いた背景

「流れがきっともう一度は来るはず」

スポーツの試合でそんな実況を聞いたことがあるだろう。人の一生にも、また流れがある。よい流れに乗ることが大事だと。アメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーは、こんなことを言っている。

「よい機会に恵まれぬ者はいない。ただそれをとらえられなかっただけなのだ」

時流に乗って若くして富豪になったカーネギーらしい言葉だが、藤原道長の父、藤原兼家もまた紆余曲折を経て「人生の流れ」を実感したことだろう。

兼家の父・藤原師輔は、兄の実頼をしのぐほどの才を持ちながらも、政権を握ることなく、病によって右大臣で死去。師輔亡きあとは、実頼が関白となるが、自らを「揚名関白」つまり、「名ばかり関白だ」と嘆いていたという。

というのも、村上天皇のもとには、師輔の娘である安子と、実頼の娘である述子が入内していたが、述子は早世。皇子女をもうけたのは安子のほうだった。

外戚になれなかった実頼は軽んじられて、代わりに実権を握ったのは、師輔の子どもたちである。つまり、同母の3兄弟である、長男の藤原伊尹、次男の藤原兼通、そして、3男の藤原兼家だ。

追い抜いたはずの兄に干された藤原兼家

天禄元(970)年、実頼が病死すると、名実ともに、師輔の子どもたちの時代となる。長男の藤原伊尹が、円融天皇の摂政に就くこととなった。

そんな伊尹の勢いに引っ張られるように、3男の兼家はその前年の安和2(969)年に中納言となり、次男の兼通を追い越すこととなる。さらに天禄3(972)年には、大納言まで出世している。

自分に風が吹いてきた――。人生が回り始めたかにみえた兼家は、そう感じていたに違いない。

だが、その矢先に伊尹が病によって倒れてしまう。代わりに兼家がさらに台頭するかと思いきや、存在感を高めたのは、意外にも次男の兼通のほうだった。

伊尹が天禄3(972)年10月に辞表を出すと、兼通はすぐさま権中納言・内覧となったばかりか、翌月の11月に伊尹が死去すると内大臣に昇格。関白にまで任命されている。

弟の兼家に追い抜かれたはずの兼通が逆転して、メインストリートに躍り出たのは、円融天皇と安子の意向だったようだ。兼家の運命は一転して、不遇の時代を過ごすことになる。

しかし、父や兄の人生を見てきた兼家は、案外に絶望していなかったのではないだろうか。禍福は糾える縄の如し。「流れはまた来る」と信じていたことだろう。

存命中はとことん、弟の兼家の出世を邪魔した兼通。一時期は自分を抜いて出世した、兼家のことがよほど気に食わなかったのだろう。

重い病にかかって、いよいよ死が近いと悟った兼通は、いきなり天皇に除目の執行を奏上。後継者の関白として、従兄の藤原頼忠を指名している。そればかりか、兼家から右大将・按察使の職を奪って、治部卿に格下げさせたという。

いくら弟に憎しみがあったとしても、そこまでやるものだろうか。陰湿さに呆れてしまうが、兄の兼通が死の間際に暴挙に出たのは、弟の兼家のふるまいに原因があったようだ。

『大鏡』によると、兼通が病に伏せていると、自分の屋敷に兼家が向かってくるのが見えたという。「弟が見舞いに来たのか」と喜んでいたが、兼家がやってくることはなく、天皇のいる内裏のほうへ。

激怒した兼通が病をおして内裏に行ったならば、天皇と兼家が関白の譲位について話し合いをしていたという。その後、前述したように、兼通は関白の後継者に、藤原頼忠を強行指名することとなる。

最後の最後まで兄の兼通に出世の邪魔をされた兼家だったが、背景を知れば、どっちもどっちという気もしてくる。出世争いというものは、何か人間として大切なものを失うらしい。

兼通に干されてからというもの、兼家は自宅に引きこもっていたが、兼通が死去すると、天元元(978)年6月から、再び出仕する。もう二度とレールから外れてなるものかと、兼家は出世への布石を打ち続ける。

次女の詮子を円融天皇に入内させたのち、右大臣に任ぜられた兼家。詮子が円融天皇との間に、男の子の懐仁を出産すると、円融天皇から譲位された花山天皇を巧みに退位させて、孫の懐仁が一条天皇として即位する。外祖父となった兼家はついに摂政となり、政権の座に就くことになった。

出世した藤原道隆が引き上げた人物は?

出世のビッグウェーブにのった兼家がやったのは、自分の子どもたちを引き上げることである。先頭を走ったのが、兼家の長男・藤原道隆だ。

寛和2(986)年7月5日、34歳の道隆は三位中将から参議を経ることなく、一気に権中納言になっている。そのうえ、同日に詮子が皇太后になったため、皇太后宮大夫となった。

そして、7月20日に兼家が右大臣を辞職した際には、道隆は5人を追い抜き、権大納言にまで出世。2日後の22日に一条天皇が即位すると、その日に従二位となり、さらに4日後の26日に正二位になっている。同月に3回も昇進するのは異例のことだ。なりふり構わない兼家の手腕には驚かされるばかりである。

そんな道隆もまた、自分にしてもらったように、我が子たちを引き上げていく。

長男の道頼と3男の伊周をともに出世させていく。とりわけ道隆が目をかけたのが、嫡妻の高階貴子との間に生まれた伊周である。


藤原伊周。大河ドラマでは三浦翔平さんが演じる(写真:NHK公式サイトより引用)

正暦3(992)年、伊周は19歳の若さで、権大納言に任ぜられている。この時点で、権中納言だった道頼を含めて5人を追い抜き、叔父の藤原道長と並ぶこととなった。そして、翌々年には伊周は内大臣にまで上り、権大納言にとどまる道長を抜き去っている。

道長からすれば、8歳年下の甥に抜かれてしまったことになるが、「やがて人生の流れが来る」と思っていたのだろう。自分の将来を疑うことはなかったようだ。

甥に抜かれても威風堂々の藤原道長

『大鏡』によると、伊周が父の道隆と東三条殿の南院で弓の競射を行っていると、いきなり道長が現れて、ともに競技を行うことになった。

このとき官位は道長より伊周のほうが高かったが、道隆は弟をもてなす意味で、道長に先に矢を射させたという。すると道長が2本とも伊周に勝利してしまう。

これでは面白くないと、道隆や道隆に仕える者たちが「もう2本、延長しなさい」と言い出した。道長は胸中穏やかではなかったが、延長戦を受け入れると、1本目を射るときにこう叫んだ。

「自分の家から天皇や皇后がお立ちになるべきなら、この矢当たれ!」

その結果、道長の矢は見事に的の中心に命中。その次に射た伊周は、プレッシャーで手が震えてしまい、矢はあらぬ方向へと飛んでいってしまう。

続いて道長は2本目の矢を射るが、今度は「自分が摂政、関白になるべきなら、この矢当たれ!」と言い、やはり中心に当てている。

見かねた道隆は「もう射るな、射るな」と伊周を止めて、ゲームセット。何とも気まずい雰囲気が流れたが、道長は得意満面だったことだろう。

やや出来すぎた逸話ではあるが、道長の負けん気の強さをよく表している。その後、道長は甥の伊周との政争を制して、頂点へと上り詰めていくこととなる。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
笠原英彦『歴代天皇総覧 増補版 皇位はどう継承されたか』 (中公新書)
今井源衝『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』 (角川ソフィア文庫)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
鈴木敏弘「摂関政治成立期の国家政策 : 花山天皇期の政権構造」(法政史学 50号)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)