旧日本海軍の大和型戦艦は「質でアメリカの数を圧倒する」目的で建造された艦型であり、その計画案は多岐に渡ります。ここでは大和型の計画案でもユニークなものを取り上げ、実際に建造されたらどうなったのかを考察します。

世界最速の戦艦で生まれたかも?

 世界最大最強の戦艦である大和型戦艦。基準排水量6万4000トンの船体、口径46cmの主砲、装甲の厚さ、これら3点で世界一であり、46cm三連装砲塔3基9門、15.5cm三連装砲塔4基12門(新造時)、速力27ノット(約50km/h)といったスペックも良く知られています。

 大和型が世界一の大きさなのは、仮想敵国のアメリカに、生産能力では敵わない日本が、「質で数に対抗する」ためでした。


戦艦史上最大の大きさである旧日本海軍の「大和」(画像:アメリカ海軍)。

 大和型が計画された時の旧日本海軍は、1936(昭和11)年に失効するロンドン海軍軍縮条約の更新を望んでいませんでした。当時、日本には、他国が軍縮条約に縛られるなか、我が国が条約を脱退すれば「条約制限なしの軍艦を建造できるため、同じ軍事費でも有利な軍備が整えられる」という考えがあり、そういった観点から大和型戦艦は生まれたといえるでしょう。実際、フランスは軍縮条約を一部だけ批准して、日米英よりも強力な大型駆逐艦を揃えていました。

 こうして、条約脱退を見据えた1934(昭和9)年ごろから、旧日本海軍では新型戦艦に関する検討が始まります。この時点では、最上型軽巡洋艦を手掛けた藤本喜久雄と、江崎岩吉という2人の造船官が艦艇の設計を進めていました。

 藤本が考案した戦艦計画案には、基準排水量5万トン、50cm砲12門、30ノット(約55.6km/h)というものもあります。ただ、このプランは実在の大和型よりも1万4000トンも少ない船体に、大和型よりもずっと重武装を搭載し、より高速で航走させようというもので、現実的とはいえない内容でした。

 同時期に江崎が提出した新型戦艦案は、基準排水量6万7000トンで、46cm三連装砲塔3基9門は前甲板に集中配置するプランでした。この計画案の特筆すべきポイントは速力。ディーゼル機関の6軸推進で、最高速度33ノット(約61.1km/h)というものでした。高速空母に比肩する韋駄天ですが、これは戦艦史上最高の高速性を狙ったからだといわれています。

高速性にこだわったワケ

 なぜ、ここまで足の速さにこだわったのか。それは当時、艦隊決戦では制空権の確保が必要だと考えられていたからです。そのため、空母を中心とするアメリカ偵察艦隊を先んじて撃破する必要がありました。そこで、旧海軍は高速戦艦2隻と空母4隻を中心とする機動部隊を4組編成し、偵察艦隊に差し向けようと考えたからだといわれています。

 この流れで新型戦艦には「超」が付くほどの高速性が必須とされ、既存の長門型戦艦も機関換装で高速化する計画が立てられます。空母と組んだ高速戦艦は前方に進出、敵空母発見後は全速力で接近し、砲撃戦を挑むことが想定されていました。


33ノットを狙う、46cm砲高速戦艦。実現できるなら最強だが……。(イラストレーター:ハムシマ)。

 当時の艦載機は速力が遅く、かつ攻撃半径も100浬(185km)程度で大きな爆弾や魚雷は積めません。加えて空母は、発進させた艦載機が帰還できなくなるため、発艦後も当該海域から大きく転進できないという弱点を有していました。

 戦艦の主砲は20浬(約37km)程度は届きますから、2時間半くらい全速力で敵空母に迫れば、主砲の射程圏内に捉えることが可能です。アメリカ艦隊としても、高速で接近してくる日本戦艦を中心とする水上打撃艦と、その後方にいる空母のどちらを攻撃するのか判断に迷うので有利です。

 実際、日米が激突した太平洋戦争においても、ガダルカナル島の攻防戦やマリアナ沖海戦での空母戦では、日本側は戦艦を含む艦隊前衛にこのような役割を与え、空母機動部隊に先行させていました。

 実現できたかは疑問ですが、もし江崎の高速戦艦が建造されたなら、太平洋戦争でも機動部隊護衛艦として空母の護衛に就いたり、飛行場砲撃のためにガダルカナル島沖合へ突入、敵艦隊と夜戦を行ったりするなど、史実で多大な活躍を見せた金剛型と同じ使われ方をしたのではないでしょうか。ひょっとしたら、自慢の46cm砲でアメリカ戦艦を撃沈したかもしれません。

「造船の神様」再降臨!

 この新型戦艦への高速性付与は、1935(昭和10)年に検討された計画案番号「A-140」(31ノット/約57.4km/h)と「A-140A」(30ノット/約55.6km/h)の両案に受け継がれています。どちらも46cm砲9門を前甲板に集中配置する内容でした。ただ、「A-140」案では全長294mになるなど、艦型が過大だとして、このプランは採用されることなく終わっています。

 なお、当初は高速の大和型、高速化された長門型各2隻と金剛型4隻の計8隻が高速戦艦となる予定でした。長門型の高速化中止後でも、新型高速戦艦4隻、金剛型4隻の第二艦隊と、長門型、扶桑型、伊勢型の第一艦隊になる計画でした。それが方針転換で、金剛型のみが高速化され、新戦艦(後の大和型)は27ノット(約50km/h)前後で検討されます。

 方向転換の要因の一つは、1934(昭和9)年の艦艇転覆事故で藤本が失脚したことです。その結果、海軍を退役し、三菱造船(現在の三菱重工)の技術顧問となっていた平賀譲元技術中将が新型戦艦の設計に参加し、影響力を発揮します。


実際の大和型戦艦は46cm三連装砲塔3基9門、うち2基6門を船体前部に、1基3門を後部に分散配置した(画像:アメリカ海軍)。

 平賀は、コンパクトながら高い戦闘力を持つ軽巡洋艦「夕張」を設計するなど、「造船の神様」として知られた人物でした。彼は1931(昭和6)年3月に予備役となったため、このときすでに民間人でしたが、「A-140I案」で独自の設計プランを示します。

 この案は、公試排水量6万5050トン、全長268m、全幅38.9m、46cm連装砲塔2基、三連装砲塔2基の計10門、15.5cm四連装副砲塔2基8門、12.7cm連装高角砲(高射砲)8基16門、14万3000馬力で28ノット(約51.8km/h)という内容でした。

 他の計画案が、46cm砲の場合は多くが三連装3基9門という内容だったのに対して、平賀案(A-140I案)は10門。副砲は他の計画案では15.5cm三連装砲なのに対して、四連装砲塔。高角砲も、他の計画案が全て6基12門なのに対して、平賀案のみ8基16門でした。

大和型戦艦、建造遅延で就役しなかったかも

 なお、I案に排水量が近いのは、史実の大和型をタービン機関ではなく、タービン+ディーゼル機関とした「A-140F5」案と呼ばれるプランです。

 ただ、この設計案では、公試排水量6万5200トン、全長253m、全幅38.9m、46cm三連装砲塔3基9門、15.5cm三連装副砲塔4基12門、12.7cm連装高角砲6基12門、13万5000馬力で27ノット(約50km/h)という内容だったので、平賀案(A-140I案)がいかに重武装かつ快速なのか、その特異性がわかるでしょう。


平賀造船官は二連装砲塔と三連装砲塔を組み合わせた、主砲10門艦にこだわりを持っていた。(イラストレーター:ハムシマ)。

 I案が建造されたら、主砲10門は偶数で交互に射撃することが可能で、射法上有利。四連装副砲塔も、火力を維持しつつ、対空砲の搭載スペース確保という意味で合理的です(砲塔の動作が遅くなる可能性はありますが)。対空用の高角砲が多いのも、その後、太平洋戦争で航空機が飛躍的に発達し、空母が海戦の主役に躍り出たことを鑑みると合致していたのではないでしょうか。

 ただし、2種類の砲塔製造も、最上型から流用できない副砲も建造を遅延させ、史実の時期に完成しなかった恐れがあります。

 ひょっとしたら、別の姿で生まれていたかもしれない大和型戦艦。もし、船体前部に主砲塔を集中配置する設計案が採用されていたら、『宇宙戦艦ヤマト』の姿も全く違うものになっていたかもしれません。