「高校野球は変革の時。監督も勉強をし直す必要がある」PL学園元監督・中村順司と帝京名誉監督・前田三夫の指導論
PL学園元監督・中村順司×帝京名誉監督・前田三夫 対談 後編(全3回)
甲子園20連勝、春夏連覇の偉業を成し遂げたPL学園(大阪)元監督の中村順司氏と、帝京(東京)を全国レベルの強豪校に育て甲子園春夏あわせて3回優勝の前田三夫氏が対談。今回、久しぶりの再会を果たしたふたり。後編では、ふたりの監督論、指導論の話題に。昔と今の高校野球の変化にも話が及んだ。
対談したPL学園元監督の中村順司氏(左)と帝京名誉監督の前田三夫氏
前田三夫(以下、前田) 当時のPL学園は全国からいい選手が入ってきてうらやましい限りでした。春夏連覇のチームなど、シートノックからして絵になっている。シートノックはショーだと私は思っていて、相手に見せることによりプレッシャーをかけることもできる。内野のグラブさばきは本当に見事で、うならされました。
中村順司(以下、中村) 担当が別にいたので、私は選手獲得にはいっさいかかわっていないんです。だから、彼らが中学時代にどんな成績でどんな選手だったかなどほぼ知らない。
むしろ知らないほうがいいと思っていて、それは入部してきた時に色眼鏡なしのまっさらな状態で彼らを見るためです。目の前の選手をしっかり見て指導したいと思っていました。
前田 私が監督になりたての頃は選手集めに苦労しましたね。実績がなかったので来てほしい中学生がいても、みんな他校にとられてしまう。でも私自身、Aランクの選手というよりは、どちらかというと普通の選手を叩き上げて鍛えるのが好きでした。だから練習量はどこよりも豊富。選手はたまらなかっただろうけど、遅くまでつきっきりで指導しました。
中村 OBがよく言っていますが、PLの練習ってじつはオーソドックスで、時間も平日は3時間くらい。ある程度余力を残して終わると、そのあとの個人練習が生きるんです。うちは全員が寮でしたから、私が帰ったあとも上級生を中心に室内練習場でとことん練習できる。
監督がいない、選手だけで練習するというのも有意義で、上級生には練習のサポートをしてくれる下級生に少しでいいから打たせ、教えてやりなさいと言っていました。教えるためには、まず自分がしっかりしないといけないですからね。
PL学園監督時代、若かりし日の中村氏 写真提供/中村順司
前田 施設の面でいうと、帝京は今でこそ専用グラウンドですが、長らくサッカー部と校庭を二分して練習していました。室内練習場もなく、PLとは対照的。でもこのハングリーさが勝つための原動力でもありましたね。そして、早く力をつけるには強豪チームと試合をすることだと考え、山本(旧姓・鶴岡)泰さんが監督の時代に初めてPLの球場に行ったんです。
のちにヤクルトに入団する伊東昭光を擁してセンバツで準優勝した時で、試合は1−2で負けましたが、互角に戦えて自信になりました。今考えたら、よく受けてもらえたなと思いますね。選手にはとにかく「PLの空気を目一杯吸って帰れ!」と言っていました(笑)。
40年以上前、前田三夫氏。現役監督時代は「鬼軍曹」と呼ばれた
中村 そうだったんですか。私は当時、コーチだったのかな。
前田 中村さんとじっくりお話できたのは、PLが1987年に春夏連覇した直後の日米親善野球の時ですね。中村さんが監督で、私がコーチ。中村さんは打撃にしても守備にしても理論をたくさんお持ちで、全部聞きましたよ。私は現役の時に内野手だったので、今でも鮮明に覚えているのがグローブの使い方。とにかく基本をとても大切にされていました。
中村 選手たちには長く野球をやってもらいたいと思っていたので、こだわったのはとにかく基本。立ち姿勢から歩き方、投げ方、打ち方、捕り方。それを体のつくりから理解させ、無理や無駄のない動きを身につけさせるんです。
たとえば、捕球の仕方が違うと投げ方も変わってきて、ボールがシュート回転しやすくなる。シュートすれば捕球する側も捕りにくいし、その投げ方で肘を痛めたりもします。
前田 PL出身者はこうして基本をしっかり押さえているからケガが少なく、息の長い選手が多かったんですね。
中村 あと私は、できるだけ全員を一緒に練習させました。部員が多いと1年生なんかはなかなかボールに触らせてもらえなかったりするけど、PLでは入学して1カ月間だけは別メニューでも5月になると先輩たちの練習に混ぜ、同じ練習ができるんです。
量は少ないけど、先輩のプレーを見るだけでも勉強になる。野球はもういいやという顔は見たくなかったので、3年生の補欠選手にもできるだけ同じ練習をと思っていました。
指導論を熱く語る中村氏
前田 私も大学時代は補欠でしたから、補欠でも生きる道はあるんだということをずっと教えたかった。補欠の子が頑張るとレギュラーと補欠の歯車が合って、そういう時はほとんど甲子園に行けましたよ。それと私が特にこだわったのが、常に緊張感のある練習にするということ。ピリッとした空気をつくる。そのために監督がいると言ってもいいくらいです。
中村 PLは練習中に音楽が流れたりする独特の雰囲気でしたが、空気は引き締まっていましたね。緊張感は絶対必要、そのために我々の言葉がいるわけです。
前田 そういう時、関西弁っていいなって思うんですよ。ワーッと言ってもきつそうできつくない。
中村 そう、それはあるかもしれない(笑)。
前田 やっぱり、選手を本気にさせなくちゃいけない。お前はまだまだやれるぞと、引っ張り上げてやる。選手というのは内に秘めているものを必ず持っているから、とことん練習したあとに思いきって野放しにすると力を爆発させるんです。そんな姿を見るのがじつに楽しく、指導者冥利に尽きる瞬間でした。
監督時代、グラウンドで選手と汗を流し続けた前田氏
中村 本気にさせるには、口だけじゃなくて自分も動かないと。私ももとはショートだったから、片手にグローブを持ち、野手の間を行ったり来たり。教えることが何より好きでした。
前田 選手と一緒になって汗を流す。一緒に打って守って、そのなかで苦しみを分かち合うい、それが教育にもつながると思います。私はノックの時、自ら内野に入ったりもしたんです。その横で選手がうまくさばいた時は、ナイスプレーと褒める。そうするとうれしそうな顔をして、自信になるんですよね。
中村 私の場合、選手と接するのにPL教の教えが大きかったなと思うんです。カバーリングではどう動いたら仲間が助かるのか、ランナーを進めるためには自分に何ができるかなど、「世のため人のため」という教えが根底にあったので指導しやすかったですね。
前田 中村さんはよく、「球道即人道」という言葉を使って指導されていました。
中村 これもPL教の教えで、野球を通じて人としての生き方を学ぶ。相手がいる前での派手なガッツポーズなどは好きではなかったし、いい加減なプレーをしたらそれは人の道にはずれること。グラウンドには社会の縮図があるとよく言っていました。
前田 まさに教育者としての目線ですね。
中村 野球というスポーツはポジションによって役割が違うじゃないですか。打順もそうだし、それぞれ自分がそこで何をすべきかを考えながらプレーする。これは社会に出た時にも同じです。野球人口が減少するなか、私たちもこうした野球のよさを広く子どもたちに伝える活動ができたらといいですね。
前田 ところで、来年から金属バットの仕様も変わり、高校野球も変革の時を迎えています。指導者も再度、野球を勉強し直す必要があるでしょうね。
中村 一方で、今はバッティングフォームもいろいろで、打つ時に人差し指を立てて握っている選手を非常に多く見かけ、驚いているんです。これは流行なのかな。でも鉛筆や箸を持つ時の基本が人差し指であるように、指先の感覚ってすごく大事なはず。古いことを言っていると思われるかもしれないけど、この機会にあらためて勉強してほしいですね。
前田 キャッチャーの動きが大きい選手に、セカンドに入れてゲッツーの練習をさせたりしたんですが、野球の視野を広げるという意味でも私はよく全部のポジションを経験させました。
各ポジションの大変さがわかるし、野球は考えれば考えるほどおもしろくなるはずなんです。グローブの扱いも足さばきも走塁も、どれも考えるから楽しくなる。そこを指導者が教えてあげてほしいなと思います。
ふたりの監督時代の思い出話は尽きなかった
中村 PLでは、かつて他の競技を見せたりもしました。相撲部屋に連れて行って稽古の様子を見学したり、地元に女子バレーボールの人気チームがあって、回転レシーブとかすごい練習をしていたんです。それを間近で見ることは、いい刺激になったはずですよ。
前田 今は情報量も多いし、練習方法はいろいろありますね。我々の時代とは違いこれからの指導者は大変なことが多いでしょうが、ぜひ頑張って高校野球の発展に貢献してもらいたいと切に思います。
中村 指導者にとっての喜びって、甲子園も思い出なんだけど、やはり選手が卒業して各方面でがんばっている姿を見る時です。今となっては、そう強く思いますよ。(とんねるずの)石橋(貴明)君なんか、帝京の3年間をのちの人生で活かしている典型じゃない?
前田 それはまたちょっと違った意味で長所を伸ばしたというか(笑)。
ふたりが監督として甲子園で直接対決した1987年から長い年月が経った
終わり
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中編<PL学園・中村順司と帝京・前田三夫が甲子園のベンチからにらみ合い「あれはなんだ?」「大変失礼なことをしました」>を読む
【プロフィール】
中村順司 なかむら・じゅんじ
1946年、福岡県生まれ。自身、PL学園高(大阪)で2年の時に春のセンバツ甲子園に控え野手として出場。卒業後、名古屋商科大、社会人・キャタピラー三菱でプレー。1976年にPL学園のコーチとなり、1980年秋に監督就任。1998年のセンバツを最後に勇退するまでの18年間で春夏16回の甲子園出場を果たし、優勝は春夏各3回、準優勝は春夏各1回。1999年から母校の名古屋商科大の監督、2015〜2018年には同大の総監督を務めた。
前田三夫 まえだ・みつお
1949年、千葉県生まれ。木更津中央高(現・木更津総合高)卒業後、帝京大に進学。卒業を前にした1972年、帝京高野球部監督に就任。1978年、第50回センバツで甲子園初出場を果たし、以降、甲子園に春14回、夏12回出場。うち優勝は夏2回、春1回。準優勝は春2回。帝京高を全国レベルの強豪校に育て、プロに送り出した教え子も多数。2021年夏を最後に勇退。現在は同校で名誉監督を務めている。