PL学園元監督・中村順司×帝京名誉監督・前田三夫 対談 前編(全3回)

 1980〜90年代にかけて、甲子園を盛り上げた名将と言えば、PL学園(大阪)の中村順司氏と、帝京(東京)の前田三夫氏だ。この時はまさにチームの全盛期で、高校野球人気もかつてないほどすさまじいものがあった。

 両者が甲子園で直接対決したのは1987年。立浪和義(現中日監督)が主将を務めるPL学園が春夏連覇を果たした年で、春と夏の両方で顔を合わせている。

 今回、久しぶりの再会を果たしたふたりが対談。前編では、甲子園での2度の直接対決について語り合った。


久々に再会したPL学園元監督の中村順司氏(右)と帝京名誉監督の前田三夫氏

●あれはもう36年前のこと

前田三夫(以下、前田) 中村さんとお会いするのはいつ以来でしょうか。我々が甲子園で対戦したのは1987年ですから、あれはもう36年前のことになるんですね。

中村順司(以下、中村) PLはこの年に春夏連覇できて、桑田真澄、清原和博の時代と並んで特に注目された時期でした。前田さん率いる帝京も急速に力をつけ、あの縦縞のユニフォームは威圧感がありました。というのも、大阪は当時、縦縞のユニフォームが禁止されていて、ほとんど見る機会がなかったんです。

前田 そうなんですか。この年は芝草宇宙(ひろし/元日本ハムなど)がエースで、1987年のセンバツは3年連続出場だったこともあり、私なりに期待をしていました。PL学園とは準々決勝で対戦しましたね。のちにプロ入りする選手が複数いたチームですから、中村さんも最初から優勝を狙っていたんでしょう?


帝京監督時代の前田氏(右から3番目)。写真は1980年センバツ準優勝後に十条駅周辺 写真提供/前田三夫

中村 とんでもない。この時のチームは前年秋の大阪大会で3位になり、ギリギリで近畿大会に進んだんです。しかも、大一番で大阪大会で敗れた大商大堺と再び対戦することになり、結果的に大逆転で勝利しましたが、この試合を落としていたらセンバツどころか春夏連覇もなかったんですよ。

 センバツ初戦の西日本短大付戦で大会ナンバーワン投手の石貫(宏臣)君を攻略できたことで自信をつけ、一戦ごとに成長していきました。


今年8月5日に77歳となった中村氏

●挑む帝京「ひょっとしたらという展開」

前田 PL学園との試合は初回にいきなりホームランを打たれ、1点献上。PLのなかでも小柄な尾崎(晃久)という選手でしたね。そのあと帝京が3連打で4回に追いついて、5回にまた逆転されるんですが、9回表が勝負どころでした。

 ここは四球でランナーが出て、すかさず盗塁。ランナー二塁でバッターが大井(剛)です。彼は夏の甲子園後の日米親善野球の代表メンバーに選ばれ、中村さんは代表チームの監督を務めたのでよく覚えていると思いますが、エンドランをかけたところセンター前へもっていった。一気にランナーが生還し、同点に追いつきました。


2021年に勇退し、現在は帝京名誉監督の前田氏

中村 帝京らしいすばらしい攻めでしたね。この試合でうちは、延長10回から救援した岩崎(充宏)が勝負を引き寄せてくれました。エース番号をつける野村(弘樹)、さらに橋本(清)とつないで3人目の投手。10回にノーアウトランナー一塁からの登板で、ふだんは温厚でおとなしい選手でしたが、よく踏ん張って投げました。

前田 ここでも私はエンドランをかけ、成功します。ランナー一、三塁になり、帝京としては絶対勝ち越さなきゃいけないシーンですよ。でも、次打者が三振。1死後、私は初球スクイズを選択します。

 というのも、打者は補欠の選手でこれまで打席に立った経験がない。あまりに荷が重いと思ったのでスクイズにするしかなかったのですが、岩崎君の変化球に飛びついてバットを出したものの空振り。これで三塁ランナーが三本間に挟まれアウトになってしまいました。

 二死二塁でチャンスは続いたものの、最後は三振に仕留められてあっという間にチェンジ。ここで点が取れなかったのが最後まで響きましたね。がっくりでした。

中村 岩崎は自分の一番得意なスライダーで勝負したんですよ。見事に切り抜けてくれましたね。じつはスクイズの時、捕手の伊藤(敬司)が三塁へ暴投したでしょう。ヒヤリとしたんですが、サードの深瀬(猛)がよく捕ってピンチを切り抜けました。

前田 あ、助かった! と思ったら深瀬君がナイスキャッチ。この場面はよく覚えています。最後は11回裏に、2死一、三塁からライト前にどん詰まりのボールがポトンと落ちてサヨナラ負け。

 芝草の調子がよく、7回からは平山(勝)に代えたんですが、最後に再び芝草をマウンドに戻して勝負に出たんです。打ちとったと思う打球だけに残念でした。ひょっとしたらという試合展開だっただけにね。


1987年センバツ優勝後、PL学園のグラウンドで胴上げされる中村氏 写真提供/中村順司

●芝草対策が奏功してPLが完勝

中村 センバツで帝京とは力の差は感じなかったですよ。いい試合でしたし、さすが関東の勢いのあるチームだなと。関東のチームって、やはり大学野球にしてもプロ野球にしても強くてお手本になるチームがたくさんあるじゃないですか。

 その点、関西はどうしても限られたチームしかない。そういうハンデは常々感じていたんです。帝京は洗練されたチーム。そしてまた、夏の甲子園で対戦するんですよね。

前田 準決勝でしたね。選手も私も再戦が叶い、今度こその気持ちでした。ただぶつかってわかったのは、春の時よりPLは数段強くなっていたということ。またも初回にホームランを打たれ、これは立浪(和義)君でしたね。打った瞬間にわかるいいホームランでした。

 芝草は2回戦の東北戦でノーヒットノーランをやってのけ、夏は私なりに互角に戦えると思っていたのですが甘かったですね。

中村 芝草君対策として試合前に指示したのは、(打順の)偶数の選手はストレートを、奇数はカーブを狙え。それで、3番の立浪がホームランを打ったんです。沈むような変化球だったと思いますが、カーブの典型的な打ち方で完璧にとらえました。


PL学園時代、甲子園で校歌を歌う中村氏 写真提供/中村順司

前田 奇数、偶数の打順の話、あとから聞いて目を丸くしましたよ。そりゃそうだ、直球と変化球しかないんだからって(笑)。芝草はフォークが決め球だったんですが、出鼻をくじかれて監督としてもショックは大きかったです。

 しかも、4回表で8点差をつけられてしまったでしょう。4回裏に4連打で2点返すなど、帝京も最終的にヒットは計10本打っているけど、前半で勝負が決まってしまったので打ったという感じは全然しなかったですね。接戦に持ち込めたら勝機はあると考えていたのに、とんでもない。中村さん、さすがにこの大会は自信あったんじゃないですか。

中村 春よりはね。でも優勝しようとかは、私は一度も口にしていませんよ。選手たちの間では、先輩たちができなかった連覇をめざそうと言い合ってはいましたけどね。野球というのはいつ何時何が起こるかわからない。だから最後の最後まで気をゆるめない。やっぱり監督として、これでもう大丈夫だっていうのはないじゃないですか。

 それにこの試合では、サードの深瀬が右肩を脱臼して一塁に回っていたでしょう。左で捕って左で投げていたんですが、バントで狙われてもおかしくなかったところ、前田さんはそれをしなかった。

前田 やったところで勝てる相手じゃない、真っ向勝負ですよ。そのうえで、力の差を見せつけられたと。上には上がいると痛感しましたね。それで僕らが試合を終えて宿舎に戻っていた時かな、第2試合で勝ってPLとの決勝に進んだ常総学院の木内幸男監督のインタビューが耳に入ってきましてね。

「明日の決勝はどんな戦いをしますか?」ってアナウンサーが質問したら、「はい、準優勝を狙います」だって。こちらは負けてしょんぼりとしてたけど、思わず笑ってしまいましたよ。木内さんらしいな、と。

●「引き際としてちょうどよかった」

中村 甲子園で勝つ監督というのはみんなすごいねぇ(笑)。PLの春夏連覇は選手一人ひとりが成長していった結果で、春7番だった片岡篤史が夏は4番だったし、1回戦から決勝まで全試合初回得点という記録もつくっています。

 この立役者は、帝京戦のスクイズで暴投しかけた伊藤なんです。本来下位を打つ選手でしたが、夏は途中から2番に上げて大活躍。卒業後は青山学院大で岩崎とバッテリーを組み、社会人野球でも将来監督になれたかもしれない男です。ですが、伊藤はALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病に侵され、46歳で亡くなってしまいました。

前田 本当につらい出来事でした。それにしても中村さんは監督就任後、甲子園20連勝。この1987年も甲子園負けなしだし、監督生活18年間で春夏通算58勝を挙げました。私は監督を50年続けましたが、46勝です。どう考えてもすごい数字、前人未到の大記録!

 いい選手がいたからって言う人もいるようですが、それだけでチームが勝てるほど高校野球は甘くありません。


ふたりの思い出話は尽きず、対談は3時間に及んだ

中村 素直な選手が多かったと思うんですよ。前田さんはこの大会の2年後の夏に初優勝を飾るんでしたね。1995年夏には2度目の優勝で、この年はPLも同じく春夏両方に出場しています。春はお互い初戦敗退でしたが、夏は準々決勝まで進みました。福留(孝介)がいた時です。

前田 福留君は日本のプロ野球、またメジャーも経験して選手生命の長い選手でしたね。中村さんはその後、1998年のセンバツを最後に勇退されましたが、もし続けていたら間違いなくもっと勝っていたと思いますよ。

中村 選手たちは驚いていましたが、引き際としてちょうどよかったと思っています。本来は前年の夏でやめるつもりだったんですが、後任監督が決まらず半年間伸びたんです。最後の試合は、松坂(大輔)君のいた準決勝の横浜(神奈川)戦。

 不運なプレーが続いて負けてしまいましたが、夏はまた横浜と対戦し、その後すっかり有名になった延長17回の死闘を演じてくれました。私は外から見ていましたが、すごい試合をしてくれたなと感慨深かったですね。

中編<PL学園・中村順司と帝京・前田三夫が甲子園のベンチからにらみ合い「あれはなんだ?」「大変失礼なことをしました」>を読む

後編<「高校野球は変革の時。監督も勉強をし直す必要がある」PL学園元監督・中村順司と帝京名誉監督・前田三夫の指導論>を読む

【プロフィール】
中村順司 なかむら・じゅんじ 
1946年、福岡県生まれ。自身、PL学園高(大阪)で2年の時に春のセンバツ甲子園に控え野手として出場。卒業後、名古屋商科大、社会人・キャタピラー三菱でプレー。1976年にPL学園のコーチとなり、1980年秋に監督就任。1998年のセンバツを最後に勇退するまでの18年間で春夏16回の甲子園出場を果たし、優勝は春夏各3回、準優勝は春夏各1回。1999年から母校の名古屋商科大の監督、2015〜2018年には同大の総監督を務めた。

前田三夫 まえだ・みつお 
1949年、千葉県生まれ。木更津中央高(現・木更津総合高)卒業後、帝京大に進学。卒業を前にした1972年、帝京高野球部監督に就任。1978年、第50回センバツで甲子園初出場を果たし、以降、甲子園に春14回、夏12回出場。うち優勝は夏2回、春1回。準優勝は春2回。帝京高を全国レベルの強豪校に育て、プロに送り出した教え子も多数。2021年夏を最後に勇退。現在は同校で名誉監督を務めている。