試合前、通路の出入り口の前で、すれ違ったふたりは抱擁を交わしている。

「クラック!(一流、優秀な人物への敬意を込めた掛け声で、日本語だと「大将!」などに近いか)、あとでユニフォームをくれよな。もしくれなかったら、息子たちにどやされる」

 来季で40歳になる"レジェンド"アンドレス・イニエスタは、18歳の新鋭ガビに対し、そう声を掛けた。ガビは憧れのイニエスタにユニフォームをリクエストされたことに少し驚き、誇らしそうだった。イニエスタは、仙人のように落ち着き払った表情をしていた。

 そんなふたりの交流は眩しかった。

 FCバルセロナという世界に冠たるクラブの下部組織ラ・マシアで、ふたりは異なる時代に育っている。ガビは10代でバルサの主力となって、スペイン代表としてもワールドカップに出場し、"バトン"は受け継がれているのだろう。ユニフォームを要求したのは、先輩イニエスタのほうだったが......。

 6月6日、国立競技場。6シーズンをJリーグで戦ったイニエスタを惜別する一戦が、古巣バルサを招いて行なわれている。0−2でバルサが勝利したが、結果はあまり重要ではない。

 バルサはラ・リーガ最終節後、弾丸ツアーを敢行。わずか24時間の滞在で、イニエスタを称えるヴィッセル神戸との親善試合のためだけに日本にやってきた。セルヒオ・ブスケツ、ジョルディ・アルバ、ペドリ、ロナウド・アラウホなど、ケガやすでに退団が決定していることで主力の多くは出場できなかったが、試み自体が異例だ。


ピッチを出たアンドレス・イニエスタを迎えるシャビ・エルナンデス監督

 先発したイニエスタは、自分のために作られた舞台を感謝するように、プレーで"らしさ"を見せた。序盤、フランク・ケシエを背後に感じながら、ワンタッチで裏にパスを通し、リターンを受けると、右サイドへスルーパス。カットされたが、"魔法"にどよめきが起こった。

 イニエスタは、サッカーを複雑化しない。簡単に見せる。食いついてきた相手の力を利用して入れ替わり、左からドリブルで運んで股抜きのクロスを試み、ワンツーからテンポよく際どいシュートを放つ。どこにも、力みがない。

【シャビ「スペイン史上最高の選手だ」】

 後半も、イニエスタは相手が寄せてきたら外し、展開するというプレーをやってのけた。その間合いの使い方は、名人の居合抜きに近い。だからこそ、不世出の選手なのだ。

「イニエスタはベテランだが、技術は失われていない。今日も、一度たりともボールを失わなかったんじゃないのか。スペインサッカー史上最高の選手だ」

 バルサを率いるシャビ・エルナンデス監督は、最高の賛辞を送っている。

 81分、交代で退いたイニエスタに、バルサ時代の戦友だったシャビ監督が近づき、熱い抱擁を交わした。言葉以上のメッセージ性があった。イニエスタの"愛されるサッカー人生"が濃縮されていた。

――Jリーグ、日本サッカーに何を残したと思いますか?

 記者会見での質問に、イニエスタはこう答えている。

「うーん、わからないな。ピッチ内外でのプロフェッショナルの姿勢かな。でも、私はたくさんの愛情を皆さんからもらったし、すばらしい経験をすることができました」

 彼は最後まで謙虚で、少しの驕りもなかった。そして彼が示したサッカーは、バルサの若手にも最高のレッスンになったはずだ。

「ボールを持っていれば、失点しない。ゴールに迫るだけだ」

 バルサ、ラ・マシアの原点であるフィロソフィを高らかに示した。「バルサはかくあるべし」。その道筋と言えばいいだろうか。

 この試合でプレーメイクを担当したMFパウ・プリムは、日本で言えば高校2年生で、ユースBチーム所属だが、イニエスタの技に触発されたようだった。ジョゼップ・グアルディオラ、シャビ・エルナンデス、セルヒオ・ブスケツの系譜を継ぐ。優れたビジョンと技量を用い、ダイレクトで迅速に次のプレーを促し、プレー方向を変えて展開を広げ、ラインを越えたパスを果敢に突き刺した。

 もうひとり、右アタッカーに入った17歳のダニ・ロドリゲスは、ハーフタイムに積極的にイニエスタに話しかけ、興奮気味だった。左利きで俊敏で、複数のアイデアがあり、スピードのなかで技術を使えて守備を崩せる選手だ。

「メッシの後継者」と言えるが、リオネル・メッシを輩出する前から、ラ・マシアでは各カテゴリーにこの系統のアタッカーが必ずいた。

 不安定な天候でピッチは雨で濡れ、神戸の選手たちのパスやコントロールは少しずつ狂ったが、イニエスタだけは優雅さを失わなかった。ボールを走らせ続けた。

「バルサとは何か?」

 イニエスタはバルサの若手にも、神戸の選手にも、プレーで指南していたのかもしれない。7月1日、神戸。J1北海道コンサドーレ札幌戦が、イニエスタの日本ラストゲームになる。