「シニア世代のおしゃれ番長」として話題の女優・柏木由紀子さん。インスタグラムではそのおしゃれな写真を多数投稿しています。5月22日にはじめてのファッションブック『柏木由紀子ファッションクローゼット』(扶桑社刊)が発売になりましたが、こちらは発売前重版がかかるほど大好評。そんな柏木さんのスペシャルインタビューを3回に渡ってお届けします。今回は、夫・坂本九さんを振り返っていただきました。

ファッション本を出版。夫にも真っ先に報告して

――いよいよ『柏木由紀子ファッションクローゼット』が発売されましたね!

【写真】坂本九さんとの結婚時代、シャネルのスーツ姿

柏木:はい。一足早く自宅に届いたできたてホヤホヤの本を、主人(坂本九さん)の仏前の置いて真っ先に報告しました。私がこんなふうに本を出したことに、主人はびっくりしているんじゃないかしら(笑)。でも絶対に喜んでくれていると思います。

おしゃれは今を楽しく充実させる最高の方法。そして、私に元気と勇気を与え続けてきてくれたものでもあります。みなさまに本を通じて私のおしゃれをご披露させていただく素晴らしい機会に恵まれ、とても光栄です。

――坂本九さんは、柏木さんのファッションをさりげなくほめたりされる方だったんでしょうか。

柏木:それはもう、お洋服に限らず髪型でもなんでも「ゆっこ、いい感じだね」「似合うよ」としょっちゅう。全然さりげなくないんです(笑)。ストレートにちゃんと伝えようとしてくれる人でした。

まだスマホのない時代だったから、文字で気軽にやりとりをすることができなかったでしょ。だから、小さなこともみんなメモに残してくれて。「今日の髪型はすごく素敵だったよ」とか「色合わせが最高だね」とか。ほめ言葉のメモがどんどんどんどん増えていくんです。

主人は私より6つ上なので、存命なら81歳になります。あの世代の男性としては、珍しいタイプだったかもしれませんね。私のファッションに興味をもってくれることももちろんそうですし、テニスだって、ゴルフだって、「これは男のつき合いだ」なんて絶対に言わず、必ず私を連れて行ってくれました。楽しいことは一緒にやろうよ、って。温かいマイホームパパでした。

だから、主人があの事故(※)で亡くなるまで、14年間の結婚生活は夢のように幸せでした。

1985年に起きた日航機墜落事故のこと

――どんなご夫婦だったのでしょう。

柏木:主人は責任感の強いリーダーで、私と娘の2人の娘の3人を引き連れている感じです。甘えん坊の私にとっては、夫であるだけでなく、守ってくれる父親であり、頼れる兄であり、なんでも話せる友だちでもありました。

子どもたちに対しては、父親的なことはもちろん、日常のこまごました母親的なことまで難なくやってくれる、今でいうイクメン。たとえば子どもの具合が悪くなったりすると、私はオロオロしてしまい、どう対処するかは主人の指示待ち。今振り返るとなんでもまかせきりで、頼りきりだったように思います。

だから、こんなに幸せで、もしもこの人がいなくなったらどうしようと、ありもしないことを考えて、ひとりでドキドキしたりして。

でも、本当にいなくなるとは、思ってもいませんでした。

●あの日からこの夏で38年

―― あの日からこの夏で38年になりますね。

柏木:あの日のことは鮮明に覚えています。家の前は報道陣でごった返していて、私たちはこっそり裏から外へ出て、車で事故のあった山へ向かいました。

それからは、どこにいてもカメラに追われました。当時は今よりもマスコミの容赦がなかった時代です。「今のお気持ちは?」と聞かれても、心は空っぽ。

婚約発表のときも結婚式のときもたくさんのマイクを向けられたけれど、私が言いよどめば隣にいる主人がすべてフォローしてくれました。私は主人に寄り添っていればよかった。

そんな私が突然「時の人」になってしまい、取り繕うことも飾ることもできない言葉と表情がテレビカメラを通じて全国に流れていきました。

事故のあとは、どこへ行っても周りの目が気になって、私の姿を見た人が「ほら、九ちゃんの…」とヒソヒソ話しているような気がして、身の置き場がありませんでした。できるだけ目立たないように、ひっそりと過ごし、いつも黒い服を着ていました。

――お嬢さんたちはまだ小学生でしたね。

柏木:長女が11歳、次女が8歳。2人ともショックを受けて精神的に不安定になってしまいました。始業式の日には通学する娘たちを報道陣が取り囲み、本当にかわいそうでした。

今の時代なら、おそらくカウンセリングなどで心のケアをしてもらえるのでしょうが、当時は相談する場もなくて。

何より、私自身が悲しみの底に沈んでしまい、生きているのに精いっぱい。だから、娘たちをどうしてあげればいいのかがわからず、本当に辛かった。

あれから私たち3人は、主人の話題をいっさい口にしなくなりました。テレビのニュースで主人の名前が流れてきても、娘たちはテレビの方へ顔を向けることさえしない。

3人がそれぞれ何事もなかったように普通に暮らそうと必死で努力していました。「パパは今仕事で、ちょっとここにいないだけ」、そんな雰囲気をつくりたかったのです。

当時は、もう笑いあえることなんて永遠にないんじゃないか、とさえ思いました。でも、今はこうして笑って過ごせています。

●おしゃれのおかげで前を向けた

――そのきっかけは何だったのでしょう?

柏木:事故の翌年、主人が新広島テレビで務めていたクイズ番組の司会を私が引き継ぐことになったことです。

お話をいただいたときは、「司会なんて、とても無理です」とお断りしたのですが、「広島は原爆のどん底から立ち直りました。柏木さんにも立ち直っていただきたいのです」とおっしゃっていただき、心が動きました。

主人を亡くしてから半年後、仕事復帰のために私が選んだ服はピンクのシャネル風スーツ。東京から広島へ向かう新幹線では、ローズピンクのハーフコートを羽織りました。その様子はスポーツ新聞などでも報じられ、今でも手元に残してあります。

このお洋服を手に取った自分の気持ちが、今ならよくわかります。

「主人がやっていた番組を、私ができるかしら」という不安と自信のなさ。でも、そんな自分をここで変えなきゃ、という思い。

あのときの私には、ピンクの服の力が必要でした。ピンクの服は私に、力と前を向く勇気を与えてくれました。身にまとうもので人はこんなにも変わることができる。
それからの私は、おしゃれをすることで元気を取り戻していったのです。

すべて私物、セルフコーディネートで77の着こなしを紹介している、柏木由紀子さんの新刊『ファッションクローゼット』(扶桑社刊)は好評発売中。