「枕営業の誘いも…」芸能系の仕事で稼ぐ女性がダメ夫を捨てワンオペ育児しながら80代老父母W介護の茫然
■無口で勤勉な父親と見栄っ張りで気の強い母親
芸能関係の仕事に従事する馬場寧々さん(50代・独身)は、東京生まれの関西育ち。父親はかつて呉兵学校を卒業後、海軍に在籍し、その後大手電器機器メーカーに勤めていた。31歳の頃、親戚の紹介で、メーカーの工場で働いていた23の女性とお見合いをし、結婚。両親は結婚後すぐに女の子を授かったが、死産。ショックを受けた母親はしばらく意気消沈し、10年ほど経った頃、父親の兄の双子の息子の片方を養子に迎えようとしていたが、そんな矢先に妊娠。馬場さんが生まれた。
父親は、家の中でも外でも変わらず、優しくて穏やかで真面目な性格。テレビはNHKの大河ドラマと、ニュースしか観ない人。お酒は一滴も飲めず、寡黙で、勉強好き。馬場さんが物心ついた頃も、よく机に向かい、英語を勉強していた。
母親は反対に、華やかなことが好きな人。田舎出身であることを隠したがり、背伸びをしたり、見栄を張ったりするところがあった。気が強く、結婚後はずっと専業主婦だったが、父親には偉そうに振る舞っていた。ただ、生まれた馬場さんをとてもかわいがり、得意の編み物でワンピースやコートを作ってくれた。
しかし、馬場さんが物心ついた頃、両親の関係は冷え切っていた。
「父は、母のことが大好きだったと思います。でも母は、結婚当初から、父が嫌いだったようです。『一緒にいても面白くない』『世界一嫌いな男は父だ!』と言っていました」
時代は高度成長期。父親は仕事で忙しかったのだろう。家族で出かけることはほとんどなかったため、「どっこも連れて行ってもらえなかった!」が母親の口癖だった。
「家族で出かけた記憶は2回ほどですが、そのうち伊勢に行った時に、母が大きなエビを注文したら、父が嫌な顔をしたらしく、母はそれをずっと根に持っていました。私は、家族3人で出かけるのはうれしかったですが、母が父に暴言吐くのを見るのが嫌でした」
母親は気に入らないことがあると、父親にも馬場さんにも、しつこく怒鳴り散らした。
「大抵母が一人で怒り、いつまでも一人で喚(わめ)いていました。父はずっと耐えていたので、子ども心に、『なぜ言い返さないんだろう?』と、イライラしていました。正直母は、『精神的に異常でもあるのか?』と思うぐらい、毒親でした。こんなに仲が悪いのに、『両親はなぜ離婚しないのだろう?』と不思議でたまりませんでした。結局母は、一人では生きていけないから、お金のために離婚しなかったのだと思います」
両親を冷静に観察していた馬場さんは、父親に似て大人しい子どもだったが、山口百恵や松田聖子に憧れ、人前で歌マネをすることは好きだった。そのあたりは目立ちたがりの母親に似ていたのかもしれない。
「あまり勉強はできませんでしたが、体育と音楽の成績は良かったです。学園ドラマを見て、『自分もこんなドラマに出たいなぁ』と思っていた矢先、母が劇団に入れてくれたのがきっかけで芸能界に憧れ始めました」
■芸能活動
やがて馬場さんは大学に入学すると、大学2年生の頃から、自ら俳優スクールに入り、演技の勉強を開始。端役だが、何本かドラマに出演する。テレビ番組のオーディションを受けまくると、何本か受かり、リポーターの仕事もこなした。ミスコンテストを受けたり、モデルの仕事をしたりすることもあった。
テレビ局に出入りするようになると、ある事務所のマネジャーに声をかけられ、「この業界目指すなら、事務所に入らないとダメだよ!」と言われ、そこで初めて事務所という存在を知る。結局、その事務所のオーディションを受け、トップで合格。
その後、東京の大手芸能事務所のオーディションにも合格し、「レッスン無料、寮も用意する」と言われたが、母親に大反対され、諦めた。
「あの頃、もっと勇気があって、親の反対を押し退けられたら、どんな人生が待っていたのだろうと思うこともありますが、当時は、枕営業の時代。私も放送作家やディレクターに誘われましたが、枕営業までして仕事が欲しいと思いませんでしたし、オジサンが苦手だったので、全て断りました。後悔はありませんが、女性に対してそういう扱いをするのが普通で、それを受け入れないと生き残れない業界だと痛感しました」
事務所を変えたところ、誘われることはなくなったため、仕事を司会やリポーターを中心としたものに切り換えた。大学を卒業すると、収入の足しにと歯科医院でアルバイトをしながら、芝居の養成所に通った。
だが、順調にはいかなかった。馬場さんが24歳の頃、母親がイライラすることが増え、「大学まで出したのにアルバイト生活なんて!」と馬場さんの顔を見れば罵倒してくるように。
そんなある日、いつものように母親と口論になっていると、ついに「もう出ていけ!」と母親。馬場さんも売り言葉に買い言葉で、「出ていくわ!」と叫ぶと、そのまま家を出た。
アルバイト先の歯科医院の2階が空いていたため、歯科医師に頼み込んでしばらく住まわせてもらい、貯金をした。自分で部屋を借りて出ていったのは、その2年後。家を出てからしばらくすると、母親との関係も回復していた。
■結婚と離婚
芸能活動も徐々に軌道に乗り、夢中で働いていた馬場さんは、31歳の頃、友人の紹介で38歳の男性と出会い、結婚した。
「おとなしく無口な人で、100点満点とは思わなかったけれど、仕事柄業界について理解があったので、結婚を決めました」
2人は1995年に結婚。新居は、夫の実家から歩いて3分ほどのマンション。このマンションは、夫が独身時代に親の勧めで購入したものだった。
ある日、馬場さんが帰宅すると、突然、カーテンが別のものに変わっていた。「彼が独身の間は、義母が洗濯や部屋の掃除をしていたようで、結婚しても、彼が合鍵を返してもらっていなかったようです」
馬場さんが実家に帰る予定だった日には、義母が突然玄関を開けて入ってきて、家の中で馬場さんと鉢合わせに。「あら、まだいたの?」と言われ、馬場さんは愕然。
「普通、息子の新婚家庭にカギ開けて、勝手に入ってきますか? 子離れしない義母に、気持ち悪さと恐怖を覚えました」
義母に嫌悪感を抱くようになった馬場さんは、義実家から3分のところに住んだことが間違いだったと思い、夫と話し合い、マンションを売って、義実家から車で1時間の距離にある賃貸マンションに移り住む。数年後には、同じ地域で新居を購入した。
ところが夫の勤め先の社長が変わり、新しい社長は夫を契約社員に降格。暗に退社を促されていると感じた夫は、馬場さんの紹介でメディア関係の会社に転職。ところがあまりにも仕事ができず、クビに。
「義母のことで私が悩んでいても、夫は無関心。イライラも積もりました。夫は思いやりもなく、私が熱を出しても何も助けてくれず、車とサーフィンに夢中。この頃から離婚を考え始めましたが、子どもが小さかったので我慢しました」
夫は転職活動に真剣に取り組む様子もなく、馬場さんが進捗をたずねると、逆ギレする始末。仕方なく、馬場さんがまたつてを探し、知人に仕事を紹介してもらったが、その頃には馬場さんは、夫といると自分が情けなくなり、嫌悪感さえ覚えるように。経済的にも馬場さんを頼り、貯金を取り崩していく。
2011年。78歳になっていた義母は、認知症の症状が出ていた。離婚を決定づけたのは、そんな義母にお金を借りてまで、サーフィン用の車を購入したことだった。
「この人とはもう無理!」と思った馬場さんは、17年間の結婚生活を強制終了させる。
12歳の息子は馬場さんが引き取った。
「元夫は、結婚に向いていない人でした。責任感も思いやりもない、冷たい人でした。コミュニケーションが下手で、今思えばADHDだったと思います。離婚後、義母の代わりに義理妹が元夫のお金の管理をしているようで、1円も養育費をもらえませんでした。息子が中学になる時でしたから、生活と教育費でしんどかったのですが、元夫は私たち親子には無関心で、息子にも連絡はありません。本当に変な人でした」
■息子と両親
馬場さんが離婚したとき、息子はちょうど中学に上がる直前だった。母子家庭になった馬場さんは、自分の実家から車で1時間ほどのところで暮らし始めた。
息子が小さい頃は、自分の仕事が朝早かったり、夜遅かったりするときは、実家の両親に預けて仕事に出かけていた。特に母親は孫がかわいくて仕方がない様子で、一緒に買い物や旅行に行った。
保育園に入ると、夜20時まで預けることも珍しくなくなった。20時ギリギリに迎えに行くと、帰り支度を済ませた保育士の先生に、「もう少し早くお迎えに来てください」と何度も注意を受けた。
「元夫には世話になりたくなかったし、両親は車に乗れません。息子が5歳の頃、すでに父は81歳、母は73歳で、高齢のためお迎えは難しく、20時を超えてしまうときは、仲の良いママ友に息子も一緒に連れて帰ってもらっていました」
そんな息子は、おとなしい子に成長した。
「平和主義で、人の悪口を言わない男の子です。元夫に似ていて、ADHDと診断されました。依頼されたことは忘れがち。スイッチが入らないと勉強はしませんが、スイッチが入ると朝まで勉強して、90点台を取ります。自己管理が苦手で、朝起きられません」
離婚後の馬場さんは、自分と息子の生活だけでも精いっぱいだったが、時々様子を見に実家に帰ると、その度に両親に異変を感じることが増えていく。
母親は、「夜中にお父さんに、『胸が苦しい』と言って起こされる」と馬場さんに訴え、イライラしていることが増えたほか、料理をしていて鍋を焦がすことや、同じものを買ってきてしまうことが頻発していた。
馬場さんは、包括支援センターに相談し、ケアマネジャーについてもらう。介護認定を受けると、88歳の父親は要介護1、80歳の母親は要支援2。先行して父親のデイサービスを契約したが、まだ自分で電話ができてしまう父親は、自ら「行かない」と電話してしまっていた。
2013年。息子が中学校を卒業すると、馬場さんは息子と相談し、実家で両親と同居することを決めた。(以下、後編へ続く)
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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。
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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)