「たった一つのゴールで人生が変わる」。廣山望は海外5カ国でプレー「価値観がひっくり返った」数々の経験
廣山望インタビュー 前編
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JFAアカデミー福島や、育成年代の日本代表コーチを務める廣山望氏をインタビュー。まだ日本選手の海外移籍が少なかった時代にパラグアイへ渡り、その後欧州、アメリカでプレーするなど、グローバルな活躍をしたことで知られる。引退して10年が経ち、今回、改めて現役時代を振り返ってもらった。
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パラグアイのセロ・ポルテーニョでプレーしていた頃の廣山望氏
――廣山さんが引退されてから10年が経ちました。高卒でジェフユナイテッド市原に入団されて、そこからパラグアイのセロ・ポルテーニョ、ポルトガルのブラガ、フランスのモンペリエなどを渡り歩き、一度Jリーグに復帰されたあと、キャリアの最後にはアメリカの独立リーグでプレーされました。さまざまな国やクラブでプレーされた現役時代のなかで、一番思い出深いのはどのシーズンになりますか?
どの時代も印象に残っていますが、強いて言えば高卒からプロになった1年目ですかね。当時のジェフには、中西永輔さんや城彰二さんなど、日本人のレベルも高かったわけですけが、外国人選手のレベルがとても高くて、衝撃的だったのを覚えています。
ネナド・マスロバルやイワン・ハシェック、ウィントン・ルーファーとか、なかなか癖があるけど、世界レベルな人間性とプレークオリティを持った選手たちと同じロッカールームに入れたのは、よいスタートだったと思います。
――当時はJリーグ全体としてもワールドクラスな外国人選手が多い時代でしたね。
名古屋のドラガン・ストイコビッチや鹿島のレオナルドとか、それこそ挙げたらキリがないくらいでした。ワールドクラスの選手たちと対戦できたのは、今思うと本当に贅沢な時代だったかもしれないですね。
――そういったレベルの高い外国人選手たちとプレーできたことは、その後、海外へ目を向ける要因になっていたのでしょうか?
プレーのレベルはもちろんですけど、彼らの背景も含めた人間性がすごくて、日本人とはちょっと雰囲気が違うんですよね。ジェフでの5年間はすごく充実したものでしたけど、どこか物足りないと思えたのは彼らの存在が大きいと思います。
このままJリーグでプレーしていて、彼らのような背景を持った人間になれるかと言ったらたぶんなれない。このままじゃまずいな、もったいないなと肌感覚で感じていました。
――それだけ影響を受けられた彼らの人間性で、具体的に思い出すエピソードはありますか?
当時のジェフはすごく若いチームで、僕は他チームであれば若手ですけど、ジェフでは中堅くらいの感覚でやっていました。
そんな選手たちと比べると、例えばハシェックはロッカールームに来て、まず英字の新聞を読み始めるんですよ。僕らなんかは読んでもスポーツ紙で、もう佇まいから全然雰囲気が違いましたね。彼は日本語もかなりできたし、ドイツ語やフランス語も話せて、聞けば弁護士の資格も持っていて普通じゃないんですよ。
マスロバルにしても、試合の前日にホテルに入るんですけど、昼とか試合前の食事ではパスタだったり、うどんだったり、ある程度決まった時間にチームで決められた食事をしっかりと摂って、それで試合に臨むという決まりがあったんです。
ところが彼は、食堂に並んだおにぎりとかを見て「こんなの食って戦えるか」と言って、外のレストランで血が滴るようなステーキをしっかり食べて、結局一番活躍しているんですよ(笑)。どちらがいいとか理屈ではなくて、その人が持っている背景だったり、個性だったり、強さなんだと思いますね。
彼らと比べると、我々日本人グループは幼かった気がします。同じサッカー選手にこういう人たちがいたのは、このままではまずいという焦りとか、サッカーをもっと知りたいとか、サッカーだけではなくてそれに付随する世界のさまざまなものを見てみたいとか、そんな思いに大きく繋がっていたと思います。
パラグアイで価値観や生活観がひっくり返った――2001年にパラグアイのセロ・ポルテーニョに移籍されるわけですが、パラグアイを選んだ理由はあったのでしょうか?
移籍のチャンスがあったから、パラグアイに行ったというだけですね。本当にどこでもよかったというか、ある程度の国だったらどこへ行っても文化だったり、サッカーの質だったり、日本にはないものがあるといった確信がありました。それからなにより日本を出ることのほうが大事でしたね。でも結果的にすごくいいところへ行けたと思います。
――パラグアイでの1年目を振り返るとどんなシーズンでした?
日本での生活から、ひっくり返るぐらいの価値観や生活観、あらゆることが変わったのはよかったですね。逆に日本と比較できる部分が多ければ、ひょっとしたら1年過ごしたらどっちがいいのかみたいな話になっていたかもしれない。でもまったく違う世界があったことで、その後のブラジルやポルトガル、フランスを選択しやすかった。そういった意味では、パラグアイに行けたのは本当に大きかったです。
――まったく価値観が違うというところで、生活への適応には苦労したこともありました?
日本では、どちらかと言えば理詰めで考えるところが自分の強みだったんですけど、それが意味ないと感じましたね。自分が持っている価値観がまったく通用しないところでした。
はじめは言葉も思うように通じなかったんですけど、戸惑っていたり、困っている人を、向こうの人たちは相手をしてくれるんですよね。わからないことがあったら「ほかにやることないし」と、わかるまでつき合ってくれるんですよ(笑)。これがヨーロッパのトップリーグだったら、置いていかれていたかもしれない。大変なことはありましたけど、それにすごく助けてもらいました。
――以前、「日本では、自分が一番大切にしなければいけないこと以外に、かなりパワーを使っていた」と。それに海外に行って気づけたと話されていました。それは具体的にはどういうことだったのでしょうか?
わかりやすく言えば、サッカーだけで結果を出すのが大事で、それ以外はまったく気を張らなくていい環境だったことですね。日本では若手ながら中堅的な役割、責任を与えてもらえて、地元出身でもあり重宝してもらえました。それはいい意味で大事にしていたし、必要だった部分ではあると思います。
でもひょっとしたらあの時、パラグアイに行ったことでちょうどよくそうしたものから外れたのかなと。向こうで得たその感覚は今でも自分を支えているもので、なにが大事で、なにを捨てられるのか。ある意味いい加減になってしまって、迷惑をかけてしまった人もいると思いますが、自分にとって大事なものをはっきりとした上で行動を起こせるのは、自分の強みだと思っています。
パラグアイで自分のなかの基準が変わってしっかりと土台を作れたことで、どこへ行っても同じくらいよい経験ができたと思います。実際、ポルトガルやフランスでは、その土台がなければ上に乗らなかった経験ばかりで、今もその土台に乗っている部分があります。
日本での5年、もっと言えばそれまでの18年間の日本での生活が無駄だったわけではなく、そこで自分が築き上げたものがあったからこそ、パラグアイでいいものに作り変わったと思います。今の指導者の仕事にもうまく繋がっていると感じていますね。
たった一つのゴールで人生が変わる――セロ・ポルテーニョでは1シーズンだけでしたが、廣山さんは日本人で初めてコパ・リベルタドーレスに出場されました。まだまだ日本人には馴染みが薄い大会だと思いますが、どんな印象が残っていますか?
報道の量や注目度は、現地にいるととてつもない大会でしたね。試合数も多くて、僕はケガも少なかったので、連続でいろんな国へ行けて楽しかったです。ものすごい熱狂のなかで、絶対に負けてはいけない、勝たなければいけない、なんとか相手を難しい状況に追い込まなければいけない。そうした価値観が、Jリーグの環境とは全く違いました。
よく言いますけど、ボールボーイからなかなかボールが出てこないとか、ボールボーイをベンチに呼んでお菓子をあげて周りにボールボーイが誰もいないとか(笑)。しょうもないことですけど、それだけなにをしてでも勝ちにこだわるという、南米のちょっと異常なテンションを生で経験できたのは面白かったですね。
――南米のサポーターの熱狂度はやはり殺気立ったものがありました?
そこにすべてを求めて来るお客さんなので、リンゴとかなにかモノを投げてきて、それが選手の頭に当たって切れて試合が中断したことがよくありました。ちょっと度を越していると思いますけど、選手の経験値としては大きなものでしたね。
今のU−16日本代表でも「なにが起きても左右されない」というテーマで取り組んで、アジア予選を4連勝できました。やはりいろんな経験をしているほど、なにが起きても左右されにくくなると思うんですけど、コパは本当にいろんなことが起こり得る大会でした。
――廣山さんはコパ・リベルタドーレスで2得点していますが、それだけのビッグトーナメントで点を決めると、評価や報道はほかとは違うものでした?
それはもう極端に全然違いますね。新聞の一面が全部自分みたいな感じになって、一気にパラグアイ国民が僕のことを知ってくれました。もちろん、日本人という面白さもあったと思いますけど、一夜にして変わりましたね。「サッカー選手って結果一つでこんなにも変わるんだ」と、やったことに対して正当に評価してくれる感覚がありました。
日本ではなかなかないと思うんですけど、向こうでは大げさではなく、たった一つのゴールで人生が変わることは珍しくない。活躍した試合の次の週には移籍していなくなるというのが、目の前で起きていました。
結果を出してタイミングさえ合えば、一気に世界が広がる、変わる。余計なことに気を使わずそこだけに集中すればいい、とはそういうことですよね。その意味でコパでの得点とか、大きい大会は、選手として本当にいい経験でした。
――南米の選手の貪欲さは、そういった背景が要因の一つとしてあるわけですよね。
活躍すれば文句なし。それは若手にとっては自信があればトライするし、本当に夢がある世界だと思います。ピッチの上で全員が平等で、ピッチ外では不平等だからこそ、そのコントラストがサッカー選手として楽しいというか。憧れたり、ギラギラできる理由なんだろうと思います。
いろいろな経験が本当に面白かった――セロ・ポルテーニョのあと、ブラガ、モンペリエとプレーされて、2004年に東京ヴェルディへの移籍で4年ぶりにJリーグに帰ってきました。いろいろと経験されてきて、久しぶりのJの舞台はどう感じましたか?
改めてJリーグはしっかりしているし、日本に合っていると思いました。いない間にかなり発展していて、世界に誇れるシステムだったり、サポーターの雰囲気だったり、いろんな人の積み上げによってここまで来たんだと感じました。どちらがいいというわけではなく、南米とは違うものだけど、独自のものとして発展してきたのは誇らしいと思いました。
――帰国後Jリーグで7シーズンプレーしたあと、引退間際の2011年にアメリカの独立リーグのリッチモンド・キッカーズへ移籍されました。アメリカを選んだ理由はどんなところだったのでしょうか?
一つは単純にトライアウトがあったからですね。それと南米、ヨーロッパとプレーしてきて、それらとはまったく違う異質なシステムで成り立っていると聞いて、せっかくいろいろと経験してきて、そこが抜けるのはもったいないと。
Jリーグで7シーズンプレーして、いろんな意味で価値観や基準がフィットしてきていました。よい部分もありながら、今後を考えたらまた違う経験をしたい思いもありました。
――独立リーグとはいえ、エンタメの本場であるアメリカは日本や南米、ヨーロッパとは違うものがありました?
向こうでは毎試合、国歌が必ず流されるんですね。アメリカはいろんな国の人が住んで成り立っているわけじゃないですか。人種も違えば、宗教も違う、背景もバラバラ。そうしたなかで国歌を聞いてから試合をするのは、アメリカならではだったと思います。
はじめはなんとなく聞いていたんですけど、1、2年住んでいると、国歌を聞くとジーンと来るというか。そこに住んでいる実感をすごく感じられて、いい経験だったと思います。
確かにサッカー的な経験値としては低かったかもしれないですけど、最後にアメリカでの生活でもう一度自分の基準をひっくり返されて感じたことのほうが、今の立場になって生きていて、得たものは大きかったなと思います。
――改めて振り返ってこれだけグローバルに活躍されてきたわけですが、ご自身ではどんなキャリアだったと感じていますか?
面白かったのは間違いないですね。世界中に知り合いが増えて、どこへ行くのも知っているところに行くような近さがあります。サッカー面でのこだわりとか、思い入れはあまりないというか。それ以上に、そこにまつわる背景とかを生で感じられた経験は、何にも代えがたいものがあります。
そういう経験ができたのは本当に面白かったし、今の自分がいろいろと考えたり、判断する時の支えになっていると思います。
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廣山望
ひろやま・のぞみ/1977年5月6日生まれ。千葉県出身。習志野高校から1996年にジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)に入団し、1年目からMFのレギュラーとしてプレー。2001年にパラグアイのセロ・ポルテーニョに移籍し、国内リーグやコパ・リベルタドーレスで活躍して注目を集めた。その後スポルチ・レシフェ(ブラジル)、ブラガ(ポルトガル)、モンペリエ(フランス)と渡り歩き、2004年8月に東京ヴェルディに移籍してJリーグ復帰。セレッソ大阪やザスパクサツ群馬でもプレーし、最後はアメリカのリッチモンド・キッカーズで2シーズンプレーした。2012年の現役引退後は、指導者の道へ進み、現在はJFAアカデミー福島と、育成年代の日本代表のコーチを務める。