別府が誇る絶景“秘境路線バス”ついに廃止 温泉街育てたバス界の個性派「亀の井バス」の今
日本有数の温泉街・別府の秘境路線バスが廃止に。その終点「内成棚田」の絶景を、温泉街の新たな名物として地域総出でPRしてきたものでした。温泉街の育ての親が生んだバス業界の個性派「亀の井バス」が、いま苦境に立たされています。
“棚田“と“秘境“を楽しめる名物路線バス、ついに廃止
山あいの傾斜地に小さな田んぼが連なる「棚田」(地域によっては「千枚田」とも)は、かつては山あいの農村で多く見られました。その数は徐々に減りつつありますが、狭い耕作地が織りなす幾何学模様のような美しさは独特の景観を織りなし、観光地・ビュースポットとして知られるようになったケースも珍しくありません。
そんな“棚田“を心ゆくまで眺めることができた大分県のバス路線、亀の井バス「内成線」が、2022年8月をもって、姿を消します。
内成棚田を走る亀の井バス内成線(宮武和多哉撮影)。
JR別府駅から終点「かいがけ」まで約50分。1999(平成11)に農林水産省から「日本の棚田100選」にも指定された「内成棚田」を縫うようにバスが走り抜けていました。とりわけ、最後の2kmほどで一気に傾斜地を駆け上がり、そこから終点まで駆け降りる際、車窓に広がる棚田は圧巻の一言です。
また運転手さんいわく、とにかくカーブとアップダウンが多く、ハンドルさばきが大変とのこと。別府市と由布市の境界に近い終点、かいがけバス停の手前では深い谷を回り込むため、直線で約2kmのところを倍ほどかかるルートで走ります。しかし乗車する方にとっては、棚田の絶景や山奥の秘境など、目まぐるしく変わる車窓を、座席に居ながらにして眺めることができるのです。
別府市西部の内成・太郎丸地区にまたがる内成棚田は、広さにして約80ヘクタール、東京ドーム17個分ほど。春先は水をたたえた田畑が鏡のように光り、夏には新緑で鮮やかな緑に、秋には稲の穂で黄金色に。いつ行っても違う景色・色彩を楽しむことができます。土で塗り固められた畦(田んぼに水を繋ぎ止める壁)や、山の上から細かく水を分配する水路など、耕作の工夫を凝らした棚田が、防災の役割を兼ねていることなども観察できるでしょう。
また、市街地の端にある鳥越峠でバスの車窓から別府市街を眺めると、平地の狭さに驚かされるとともに、至る所で立ち上る温泉の湯煙が見えます。あまり農業向きではないこの街で、耕作地を山手に作らざるをえなかった事情も伺えます。
地元+バス+フェリー+大学+市役所総出!それぞれの棚田の愛し方
これまで別府市、内成地区と亀の井バスは一体となって、長らく低迷が続いていた内成線を盛り立ててきました。なぜいま、廃止となるのでしょうか。
棚田や秘境を眺めることができる亀の井バス内成線の営業成績は、周辺地域の過疎化もあって以前から芳しくはなかったといいます。しかし「日本の棚田100選」に選定されて以降、徐々に注目が集まるように。「このバスに乗車しに来た」という人も目立つようになってきたといいます。
これを受け亀の井バスは、内成線の運用につくバス車両に棚田や沿線風景のラッピングを施し、車内には沿線の四季の風景を展示、方向幕も「内成棚田」にするといったPRを実施。専用のホームページ「内成線・ろせんバスの旅」やガイドブックでは、バスの折り返し時間に合わせたウォーキングコースを提案するなど、1日数往復の路線と思えないほど、手厚い乗車促進策を打ち出していました。
亀の井バスが制作した内成棚田とバスのガイドブック。駅の鮟鱇案内所によると、まだ在庫があるとのこと(宮武和多哉撮影)。
しかし内成線の地域の高齢化は進み、約1300枚もの棚田で4分の1ほどの耕作放棄地が生じるように。そこで、棚田の保存を目指す「内成活性化協議会」と亀の井バス、そして別府にターミナルを持つ「フェリーさんふらわあ」、地元の大学、市役所などが総出で、ヒマワリやコスモス、マリーゴールドなどを植え、新たな観光資源として鑑賞会なども開いていました。全国的には温泉地として知られる別府市の、新たな名物を作るための動きと言えるでしょう。
ここまでしてきたのに…なぜ廃止?
亀の井バスはこれまで維持してきた内成線の廃止に踏み切りました。全国有数の温泉街・別府市を本拠地とする同社は観光地の貸切バスに頼るところが大きく、2020年にはコロナ禍でそのうち9割がキャンセルに。あまりにも急激な業績のブレーキに対応できず、赤字路線の整理に踏み切らざるを得ませんでした。
さらに、車両の老朽化も追い打ちをかけました。内成線の専用車両となっている日野リエッセ(KK-RX4JFEA・平成12年式)は製造から20年以上が経過。その走行条件の過酷さや、亀の井バスが他に小型車両をほぼ持ち合わせていないこともあり、これ以上のメンテナンスが難しかったといいます。
内成線は今後どうなる?
別府市議会でも新車両導入への補助なども含めた話し合いが続けられていたものの、急坂・カーブが連続する環境もあって、今後はひとまわり小さいジャンボタクシーでの運行を別府市が独自で行うことになりました。
なおこの内成線は、市街地では流川地区・浜脇地区といった住宅街のもっとも山手のエリアをカバーしており、買い物などに利用する高齢者の乗降もそれなりに多く見かけます。その先の内成までは、ほぼ観光客ばかりという状況でしたが、別府市ではとりあえず代替となる路線を1年間運営し、利用状況に応じて今後の運行形態を決めていくそうです。
バス界の超個性派「亀の井バス」のいま
右の車両が「すぱっと」専用車両。仙人田茶屋バス停にて、左は大交北部交通のバス(宮武和多哉撮影)。
内成線は廃止となりますが、温泉街・別府を走る亀の井バスは、この地ならではの運行システムを持ち、観光地の乗りものとしてのあり方を観察することもできます。
中でも象徴的なのが、バス車体や停留所の看板で目立つ「ぐるすぱ」表記です。別府市は広い傾斜地に温泉や遊園地・住宅街が点在しますが、その中でも観光施設が密集する鉄輪(かんなわ)・明礬(みょうばん)へ直行する需要は絶大なものがあります。かつては各地区へバス路線を運行していましたが、2012(平成24)年にはこれを別府駅〜流川〜鉄輪〜亀川〜別府駅間の「ぐるっとバス」(循環線)と「すぱっとバス」(鉄輪温泉に直行する系統)に再編。専属車両も「ぐるっと(緑色)」「すぱっと(ピンク色)」と色を分け、その他の運用車体にも側面にプレートを表示、バス停看板の上部にも飛び出したような看板を新設するという、かなり大掛かりな改変を行いました。
その直後からフリー乗車券の売上が大きく伸びるなど、観光スポットの回遊とメインスポットへの直行という二つの相反する需要を確保し、翌2013年の決算で亀の井バスは過去最高益を記録、コロナ禍前まで好調を保っていました。
元祖「生きてるだけで丸もうけ」の創業者から続く“盛り上げ精神”
同社はバス会社としての成り立ちも少々変わっています。創業者・油屋熊八は1911(明治44)年に「亀の井旅館」(現在の「別府亀の井ホテル」)を創業。極上の寝具と最高峰の料理人、給仕がもてなす3部屋だけの旅館は話題を呼び、「謎を呼ぶ立て看板を全国に立てる」「自腹で飛行機をチャーターして大阪上空からビラを撒く」「全国初の女性バスガイド」などの宣伝手法で、新聞や黎明期のラジオなどを通じ全国に“温泉街・別府“の名を広めることに。業績を拡大したこの旅館の送迎バス・観光バスが、現在の亀の井バスの源流となっています。
「生きてるだけで丸もうけ」という油屋熊八の人生訓は、その生き方に感銘を受けた落語家・笑福亭松之助師匠から弟子である明石家さんまさんに引き継がれ、思わぬ形で広く知られています。
別府市内には、現在の周遊観光の定番「別府地獄めぐり」や旅客船埠頭など、もともと氏が金に糸目をつけず私財で整備したものも多く、「別府観光の父」と呼ばれているのも頷けます。
別府市内には高熱の泉源が数多く、「地獄めぐり」として観光の定番になっている(宮武和多哉撮影)。
旅館の創業から100年余り、亀の井バスは様々な人々と手を組みつつ、内成棚田を別府の名物として育てようとしていました。コロナ禍でその事情は一変してしまいましたが、早期に廃止となってもおかしくなかった内成線の維持も、創始者・油屋熊八が目指してきた「別府への貢献」の一つなのかも知れません。