安易な「日本すごい」中毒に注意?スポーツの祭典と愛国ムード - 物江 潤
※この記事は2021年08月13日にBLOGOSで公開されたものです
国境を越え尊敬しあう選手、中傷合戦と化すネット
東京五輪が閉幕した。久しぶりにテレビに噛り付いた17日間だったが、なかでも体操競技に釘付けになった。私自身が学生時代体操部に所属していたこともあり、長年にわたり熱心に応援をしていたためだ。
それにしても、個人総合の金メダリストである橋本大輝選手の演技はもちろんのこと、銀メダルを獲得した中国の肖若騰選手の立ち振る舞いも感動的なものだった。橋本選手が逆転で金メダルを獲得した瞬間、肖若騰選手は金メダルを祝福するかのように拍手を送ったのだ。橋本選手の点数が出る前にも、両選手が互いを称えあう様子が見られた(参考:https://sports.nhk.or.jp/olympic/highlights/content/486f3e85-b8f8-4b50-bb46-82e45dfe322c/ 2:55:50頃)。
また、報道によると銅メダルだったロシアのニキータ・ナゴルニー選手は、橋本選手が最終演技に向かう際「君ならできる」と声をかけていたようだ。素晴らしいパフォーマンスをするアスリートたちが互いに尊敬しあう姿は、五輪精神を体現している。
それだけに、橋本選手への誹謗中傷は大変に残念だった。橋本選手の得点に不満を持った中国人ユーザーたちがネット上で暴れたのだ。愛国心を胸によかれと思って行動したのかもしれないが、結果として母国の品位を落としてしまったと言える。アスリートの進歩とは裏腹に、応援する側はなかなか変われないようだ。
安易な「日本すごい」記事に注意?
ドイツの哲学者、ホルクハイマーとアドルノによる『啓蒙の弁証法』という本がある。野蛮な社会を克服するはずの啓蒙主義が、最も野蛮なナチス・ドイツを生んでしまった理由を考察したものだ。
同書を補助線にしてみると、橋本選手に寄せられた誹謗中傷が「愛国の弁証法」に見えてくる。国家の威信を高めるはずの愛国心が誤った方向に働いた結果、誹謗中傷を投げつけるという母国を貶める行為に発展してしまったのだ。近代国家においては愛国心が要請されるが、暴走すると国益が損なわれたり威信が低下したりしてしまう。
こうしたことを考えるとき、五輪期間中に多く見られた「日本すごい論」的な記事は少し気にかかる。羽田空港のトイレに感激した、という記事に始まり、日本のコンビニがいかに素晴らしいか、選手村でのおもてなしに感動したといったものまで、その内容は様々だ。
当然ながら、そういった記事を読むことそのものは全く問題がない。私自身、日本の体操選手に関する記事を中心に色々と読み漁った。海外の視点から語られる日本のよさにも、気づかされる点が多々あった。日本の美点や日本国民の活躍を伝える記事から活力をもらえるなら、むしろ是非とも読むべきだ。
しかし、五輪に乗っかる意図で、それほど深く考えず「日本すごい論」的な記事が大量生産されている感は否めない。愛国心や郷土への誇りが得られるならば、それはとてもよいことだと思う一方、橋本選手に向けられた誹謗中傷のような愛国の弁証法を目の当たりにした今、ただそれらを高めればよいとは言えないはずだ。
愛国心と言えば、政治的なポジションとして保守を想起する人も多いと思うが、保守思想は他国を貶める発言を頻発する排外主義を忌み嫌う。保守思想家の西部邁氏もそうだった。
西部氏が残した多くの著作には、度々「平衡感覚」という言葉が登場する。「熱烈」「劇的」「過剰」とった言葉で形容される何かが人心を掴むとき、しばしば社会が混乱に陥る事実を保守思想が重視するからだろう。平衡感覚は、そんな言葉に惑わされないための心構えだと見なせる。一方に偏することを戒める言葉だと解釈してもよいと思う。日本すごい論を読み活力をもらうのはよいことだが、それが行き過ぎて排外主義者にならないためにも、平衡感覚を頭の片隅に置いておきたい。
「他者のまなざし」を忘れるな
重松清氏の小説『あすなろ三三七拍子』(毎日新聞社)にこんな一節がある。
「……親父はずっと、自分に言ってました。人間には二つのタイプがある、って」
「そら男と女やろ」と涙声でボケた山下の頭を、齋藤は無言ではたいた。
「ひとのことを応援できる奴と、できない奴の二種類です。ひとのことを応援できない奴は、ひとからも応援してもらえない……そう言って、とにかく自分には、ひとを応援できる奴になれ、と言いつづけていました」
(重松清『あすなろ三三七拍子』毎日新聞社、2010年)
私がひと(アスリート)を応援しないのであれば、そんな姿を見た他者が私を応援することは決してない。つまり、私がアスリートへ向けるまなざしに偏するのではなく、私に向けられる他者からのまなざしが十分に意識されているのだ。西部氏の主張からは外れるかもしれないが、先の引用文には「私のまなざし」と「他者のまなざし」との平衡感覚があると思う。
誰かを応援していると、ついつい「私のまなざし」に偏しがちだ。そして、抑止力として機能していた「他者のまなざし」を忘れて応援が過激になれば、応援は誹謗中傷や暴言に様変わりしかねない。母国の選手を応援するはずだったのに、結果として母国を貶めてしまうことだって考えられる。
政治的対立を排除した競技 観客も変われるか
肖若騰選手は、橋本選手への誹謗中傷をやめるように呼び掛けた。中国の国内事情を鑑みれば、こうした発言をすることのリスクは日本以上にあるだろう。
そんな勇気ある発言と競技で見せた振る舞いは、普段中国人に対して厳しいまなざしを向ける日本のネットユーザーたちの心を動かしているようだ。中国人を見直したとか、自分の偏狭な見方を改めたといったコメントがネット上で散見される。男子個人総合で見られたアスリートたちの素晴らしい振る舞いは、多くの人々の心に残りつづけるだろう。
一方、体操競技には今日見られる姿とはまるで違う不幸な時代もあった。前回の東京五輪で五輪の名花と称されたチェコスロバキアのチャスラフスカは、そんな時代に活躍した名選手だ。『ベラ・チャスラフスカ 最も美しく』(文春文庫)を読むと、政治的な情勢が採点に反映されているという疑惑があったこと、政治的な対立が選手間にも持ち込まれていたこと、そして政治に翻弄されたチャスラフスカの過酷な人生が伝わってくる(全国の体操競技者および体操ファンの方、是非ご一読を)。
しかし、体操競技は進歩した。政治的な情勢や主観といった要素は採点から排除され、年月を経るにつれ厳密且つ客観的になっていった。政治的な対立があっても、個人総合の日中露のメダリストたちのように互いをリスペクトしあう姿がよく見られるようになった。
不幸な時代を乗り越え、アスリートたちは変わった。ならば、私たちにできない理由はないはずだ。